スポンサーサイト


上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Posted by 渡瀬側治 at --/--/-- --:-- | Top▲

10月8日の誕生花は「パセリ(Parsley)」で花ことばは「勝利(Victory)」。花占いと今日誕生日の著名人は?


「パセリ(Parsley)」はセリ科で地中海沿岸が原産です。


恋愛中にパセリを切るのは不吉とされています。それから、庭のパセリを移植すると、悪魔が庭を支配するともいわれています。昔、ギリシャの一隊が戦いに行く途中、道でパセリを積んだ何頭かのロバに出会っただけで、総くずれになったとか・・・。これが、パセリの不吉のひとつ。


ギリシャ神話によると、パルナッソスの木陰に集められたパセリは、花輪に編まれて、ギリシャの四大競技祭のうちネメア競技とイストミア競技の勝利者達の頭を飾ったといいます。その起源は大力無双(だいりきむそう)のヘラクレスが、最初に冠をかぶったことによるらしい。


10月8日の誕生花は「パセリ(Parsley)」。

「パセリ(parsley)」の花ことばは「勝利(Victory)」。

【10月8日の花占いは?】


理由をつけてはすぐ集まり、友達と騒ぐのが大好きなあなた。陽気でオープンな性格で、とにかくお祭好き。お祝い会などは先頭を切って段どりなどしてしまいます。明るくて楽しい事が多いため、人の協力を得られやすく、何事も成就します☆



【<366日の著名人>:☆10月8日生まれの著名人は?】


1850年 - アンリ・ルシャトリエ、化学者(+ 1936年)

『アンリ・ル・シャトリエ(Henry Louis le Chatelier, 1850年10月8日 - 1936年9月17日)はフランスの化学者である。1884年に化学平衡に関するルシャトリエの原理を提出した。【生涯】:パリでエンジニアの父の元に生まれ、エコール・ポリテクニークと国立鉱山学校で学んだ。無機化学の教授になった。主に工業化学(応用化学)の分野で貢献した。【ル・シャトリエの原理】:ル・シャトリエの原理(ルシャトリエ-ブラウンの原理、平衡移動の原理とも呼ばれる)は化学平衡に関する経験則で「平衡状態にある物質系が外部の作用によって変化をうけるとき、その変化は外部の作用に反抗する結果になるような方向におこる。」ということである。平衡状態にある物質系に対して外部から濃度、圧力、温度などを変化させるとその変化を小さくさせる方向に平衡は移動する。』


1890年 - カール・ハラー、政治家(+ 1926年)

『カール・ハラー(Karl Harrer,1890年10月8日 - 1926年9月5日)は、ドイツのジャーナリスト・政治家。 1919年、ドイツ労働者党を創設した、創設者の一人。この政党は、後に国家社会主義ドイツ労働者党に改組された。ハラーは右翼組織トゥーレ協会の一員であった。1918年10月、思想を労働者に広めるために、『政治的労働者のサークル』を設立する提案を、彼は協会から受けた。同じく協会員であった、アントン・ドレクスラーと共にこれを実行し、1919年1月5日、ディートリヒ・エッカート、ゴットフリート・フェーダーも加わって、ドイツ労働者党を組織した。ハラーは、同党の初代議長に就任し、初めはトゥーレ協会の指示に従って同党を運営していた。だが、1919年9月、同党に加わったアドルフ・ヒトラーは党勢を拡大することを主張し、ハラーと対立し始めた。ハラーはヒトラーを誇大妄想家と訴えたが聞き入れられず、党内において権勢を大きくするヒトラーの圧力を受け、翌年1月5日、副議長であったドレクスラーに職を譲り、同党から離脱した。その後は目立った活動を行うこともなく、1926年9月5日、ミュンヘンで死亡した。』


1914年 - 岩崎勝太郎、実業家(+ 1991年)

『岩崎 勝太郎(いわさき かつたろう、1914年10月8日 - 1991年5月10日)は、日本の実業家・経営コンサルタントで、元岩崎勝商事社長。三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として東京都に生まれた。学歴は東京帝国大学法学部政治学科卒業。称号(現学位)は法学士(東京大学)。勝太郎の父・豊弥は郷純造の四男として生まれ、数え2歳で弥太郎の養子となった。【人物】:祖父の弥太郎に似て事業旺盛な人物として知られ、勝太郎が社長を務めた岩崎勝商事(のちに岩崎商事と改称)は三菱商事の契約の代行をする企業として隆盛をきわめた。だが資金難に陥ったため1979年に岩崎商事を清算し、勝太郎は経営コンサルタントに転身した。そのため勝太郎は三菱の創業者一族・岩崎家の中でも落魄の人物といわれている。実業家時代はコメット産業・岩崎勝商事・岩崎商事の社長を務める傍ら萬商、高陽化工材、堀越工務所の取締役を務めた。勝太郎の人となりや岩崎商事が資金難に陥ったことが『週刊新潮』1978年11月30日号に取り上げられ話題になったことがある。【家族・親族】:園子夫人は藤原北家の支流日野家の流れを汲む裏松家の末裔・裏松友光子爵の長女だが、勝太郎・園子夫妻には子供がいなかったので吉田良兼・満喜子夫妻の三男(東京海上日動火災保険勤務、良兼の次男が夭折したため戸籍上は次男)を養嗣子とした。吉田良兼は旧子爵で元侍従、満喜子は岩崎豊弥の次女、すなわち勝太郎の妹にあたる。従って勝太郎は甥を養嗣子として迎えたことになる。また勝太郎の姉・君子は藤原北家の支流御子左家の流れを汲む入江家の末裔にあたる入江相政に嫁ぎ1男1女をもうけた。入江は昭和天皇の侍従長を長く務め、エッセイストとしても活動していた。入江の姉・邦子は高木正得子爵に嫁いだが、正得・邦子夫妻の次女・百合子が三笠宮崇仁親王と結婚して三笠宮妃となったので、岩崎家は入江家・高木家を通じて皇室と姻戚関係で結ばれているといえる。』


1919年 - 宮澤喜一、第78代内閣総理大臣(+ 2007年)

『宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年(大正8年)10月8日 - 2007年(平成19年)6月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。報道では新字体で宮沢 喜一(みやざわ きいち)と表記されることも多い。参議院議員(2期)、経済企画庁長官(第12・13・17・18・29代)、衆議院議員(12期)、通商産業大臣(第32代)、外務大臣(第103代)、内閣官房長官(第44代)、大蔵大臣(第88・89・105・106・107代)、内閣総理大臣(第78代)、郵政大臣(第56代)、農林水産大臣(第18代)、財務大臣(初代)などを歴任した。【経歴】:<生い立ち>:山下汽船に勤めていた宮澤裕・こと夫妻の長男として東京に生まれた。本籍地は広島県福山市。母・ことは司法大臣、鉄道大臣等を歴任した小川平吉の二女。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、旧制武蔵高校を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。在学中の1939年(昭和14年)、日米学生会議に参加のため渡米した・・・。【日韓W杯招致に尽力】:見かけによらないが旧制中学時代にサッカー経験があり、サッカー好きで国内である大きな試合にはよく顔を出していた。このため1994年(平成6年)12月に発足した超党派のワールドカップ招致国会議員連盟の議員会長に就任した(副会長、森喜朗、久保亘、小沢一郎)。超党派というのは、これ以前、1992年3月に小沢らを中心に国会議員招致委員会が、これに先んじて発足したものの、新進党主導で運動が始まったことで自民党が反発、運動は盛り上がらなかったため。1994年の超党派招致連盟の発足で政界も一致団結し大きな運動となっていった。世界中を駈けずり回ったのは長沼健日本サッカー協会会長(当時)らだが、国際的にも顔が広い宮澤も多くの国を訪問し、実現に向けて協力を行った。また共催に向けての重要な局面に於いてもアドバイスを送り、最終的に日韓共催を決断した鳩首会談に長沼、岡野俊一郎、川淵三郎、小倉純二、衛藤征士郎、釜本邦茂と参加し、共催を後押したことでも知られている。【英語屋の面目】:宮澤の英語力は「政界随一」と謳われた。しかし宮澤に海外留学や英語の専門教育を受けた経験などはなく、その英語はひとえに宮澤本人の努力の賜物だった。宮澤の英語に掛ける情熱に関しては、学生時代に辞書を丸暗記したとか、単語を覚えたページは破って食べたなど、さまざまな伝説がある。宮澤本人によると、東大時代に日米学生会議の日本代表の一人に選ばれて渡米したところ、それまで勉強してきた英語がほとんど使い物にならないことが分かり、そこで一念発起して本格的に英語の勉強を独学で始めることにしたのだという。日中戦争から第二次世界大戦中にかけて、英語が「敵性語」として一般には排斥されていた時代にも、手に入る洋書や英字誌は片っ端から読むようにした。戦後の占領が始まると、GHQとの交渉ができる大蔵官僚として引っ張りだこになり、それこそ毎日のように英語を使う日々が続いたという。議員になってからも、議員会館の食堂やロビーでは英字新聞や英字誌を読んでいるのが常だった。あるとき背後から、いきなり強い口調で「日本の国会議員なら、日本語の新聞を読みなさい!」叱咤されたことがある。宮澤が振り向くと、そこには当時まだ新人議員だった浜田幸一が眉を吊り上げていた。しかしいちゃもんを付けた相手が宮澤と気づいて今度は浜田の方が大いに慌てた。そんな浜田に向かって宮澤は、「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞ぐらいはお読みなさい」とやり返している。浜田はこれに感化されて、しかし自分は英語はまるでダメなので、代わりに息子の浜田靖一をアメリカの大学に留学させることにしたという・・・。』


1920年 - マキシ・ヘルバー、フィギュアスケート選手(+ 2006年)

『マキシ・ヘルバー(Maxi Herber、1920年10月8日 - 2006年10月20日)は、ドイツ出身のフィギュアスケート選手。1936年ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックペア金メダリスト。1936年、1937年、1938年、1939年世界フィギュアスケート選手権ペアチャンピオン。パートナーは夫でもあったエルンスト・バイアー。』


1924年 - 土屋雅敬、元プロ野球選手

『土屋 雅敬(つちや まさたか、 1924年10月8日 - )は、広島県広島市出身のプロ野球選手(内野手・外野手)。登録名、1950年~1952年・五郎、1953年~1955年・伍郎、1956年・1957年・雅敬。【来歴】:1942年、広島商業のエースで4番として「幻の甲子園大会」出場。この大会は戦局の悪化で主催の朝日新聞が降り、文部省と大日本学徒体育振興会の主催で、従来の夏の大会と同じ形で甲子園で行われた。ただし朝日新聞の主催でないため、公式記録に入れてもらっていない。広商は準決勝まで勝ち進んだが、平安中学に逆転負けした。優勝は徳島商業。この年の広商は、土屋も含めて投手力が弱く準々決勝、対仙台一中戦で四死球を27個を出した。しかし相手の仙台一中も18個で、合計45個とは、そつの無い野球でその名を轟かす広商からすれば、あまり表に出て欲しくない過去かも知れない。そういう事もあってこの試合のスコアは、28対10である。7回裏に1イニングで17点取っている。甲子園での最多得点記録というと、1985年のPL学園×東海大山形の合計36点が有名で最多記録だが、この大会が公式に認められるような事が有れば、この広商×仙台一中がこれをも凌ぐ。その他の出場チームの選手には、南海の名選手・名参謀だった蔭山和夫、蔭山の市岡中学をノーヒットノーランで破った富樫淳(平安中学、のち阪神、平安高校監督)、早稲田大学の名監督・石井藤吉郎(水戸商業)、毎日オリオンズの“火の玉”投手荒巻淳(大分商業)らのちの名選手・名指導者が出場している。土屋は法政大学に進学し野手に転向。1947年秋、東京六大学リーグの首位打者を獲得。川崎コロムビアを経て、1950年の国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の結成に参加、俊足・巧打の1番打者として活躍した。翌年1951年、52盗塁で盗塁王を獲得。1953年、4月9日の対・名古屋ドラゴンズ戦では1試合5盗塁をマークした。デビュー当時の金田正一の親友だった。1955年、広島東洋カープに移籍。1957年引退。その後は中国放送の解説者を勤めた。打撃成績 実働7年 602試合 1466打数 372安打 7本塁打 108打点 140盗塁 打率.254。』


1930年 - 武満徹、作曲家(+ 1996年)

『武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。【経歴<1950年>】:1950年、処女作であるピアノ曲『2つのレント』を発表したが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と酷評され、映画館の暗闇の中で泣いていたという。【作風】:1960年代前期は、特に管弦楽曲においてクライマックスを目指すヒートアップの方向性が明確に表れる。「アーク」(「テクスチュアズ」含む)「アステリズム」などがこれにあたる。この時期には西欧前衛の動向を手中に収め独自の語法として操る術を獲得しているが、特にヴィトルド・ルトスワフスキのアド・リビトゥム書法からの影響が直接的に現れている。もっともこれは結果としてルトスワフスキとの類似となったもので、直接には1960年代初頭に一柳慧によって日本にその思想が持ち込まれたジョン・ケージの偶然性の音楽の影響が見られる。武満はピアニストのためのコロナなどにおいて、直接的には図形楽譜による記譜の研究、内面的には偶然性がもたらす東洋思想との関連などを探った。そして帰結したのが時間軸の多層化という考え方である。しかし前述の「アーク」などは、確かに表面上の手法においては“オーケストラの中でそれぞれの奏者が任意の時間を選択し一定の奏法パターンを繰り返す”というやり方によってオーケストラの内部における時間軸の多層性は確保しているものの、全体のテクスチュアの動きとしては“クライマックスを求めるヒートアップとその後の拡散(クールダウン)”という一元的な視点に帰結してしまう。この問題を曲全体の汎志向性というやり方で解決に導いたのは、 1960年代後半以降である。1960年代後期には、それまで映画音楽でのいくつかの試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。この頃から徐々に、上で述べた(1960年代前期までの)西洋音楽的な一次元的時間軸上の集中的指向性を薄め、東洋音楽的な多層的時間軸上の汎的指向性へと変化していく。後期には、前衛語法の使用から次第に調的な作風へと変化していった。具体的には「グリーン(当初の題は「ノヴェンバー・ステップス第2番」)」を発端とし、いくつかの中規模な作品を経て「カトレーン」「鳥は星型の庭に降りる」など1970年代終盤において明確に調性を意識するようになる。卓越した管弦楽法と絶妙に折り重ねられた和声は、多くの場面において時にドビュッシーを思わせながらも決してそれを安易な“過去の様式の模倣としての調性音楽”の次元にとどまらせず、独特の「タケミツ・トーン」と呼ばれる独自の音響へ帰結した。モートン・フェルドマンのいう「オーケストラにペダルをつける」アイデアをここまで自家薬籠中の物とした作曲家は彼だけといわれる。茫洋とした雰囲気の創出については「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う」点にあるともいわれる。武満自身は晩年に「実は数的秩序をハーモニーに導入している」などとも語り、いまだ創作軌跡の全貌は、明らかにされていない点も多い。』


1930年 - 坂本休、元大分県日田郡中津江村長

『坂本 休(さかもと やすむ、1930年10月8日 - )は、大分県日田郡中津江村の、自治体としての同村の最後の村長。最終学歴は中津江村国民学校卒業。自称「日本人のカメルーン人」。【人物】:日田市中津江村栃野在住。村長を務めていた当時の2002年、中津江村が2002 FIFAワールドカップ(W杯)でカメルーン代表のキャンプ地に選ばれたが、選手団の中津江入りが予定より5日も遅れたことで、村とともに村長の名も全国に知れ渡った。「W杯(中津江村)」は、2002年の新語・流行語大賞年間大賞に選ばれ、坂本はその受賞者となった。W杯後も、大分スポーツ公園総合競技場(ビッグアイ、現:九州石油ドーム)で開催された、日本代表対カメルーン代表の親善試合(キリンチャレンジカップ)に顔を出したり、自身がカメルーンを訪問し、友好都市メヨメサラ市にも足を運ぶなど、中津江とカメルーンの交流を続けている。2003年には、カメルーン政府から「カメルーンと日本の友好関係に貢献した」として「シュバリエ勲章」が贈られた。カメルーンに貢献した人物に贈られるもので、日本人の受章は初めて。また、同年、メヨメサラ市長も来日し、旧中津江村を訪問している。現在、鯛生金山の経営などを行う財団法人中津江村地球財団理事長であり、大分トリニータ後援会の会長も務める傍ら、W杯で得た経験を生かし、シンポジウムなどのパネリストとして引っ張りだこである。2009年12月13日、経営難に陥っている大分トリニータ再建のために設立された『大分トリニータを支える県民会議』の会長に就任した。2010年6月、南アフリカで行われる2010 FIFAワールドカップ(W杯)に、カメルーン代表の応援のため現地で観戦する。』


1934年 - 藤尾茂、元プロ野球選手

『藤尾 茂(ふじお しげる、1934年10月8日 - )は、昭和中期(1950年代後半-1960年代前半)のプロ野球選手(捕手、外野手)。【来歴・人物】:鳴尾高から1953年読売ジャイアンツに入団。入団後しばらくは控え生活が続いたが、1955年の日本シリーズで3番に抜擢され、本塁打を放つなどの活躍で巨人の日本一に大きく貢献、そのまま捕手のレギュラーポジションに定着した。翌1956年からは5番を打ち、4年連続ベストナインを獲得するなど攻守の要として活躍、巨人の4度のリーグ優勝にも大きく貢献した。1959年に持ち前の長打力を生かすため、守備の負担の少ない外野手にコンバートされた。たまたま空いた捕手の座に森昌彦が抜擢されたが、この年も藤尾が捕手のベストナイン、オールスター・ゲームのセリーグの人気投票で捕手に藤尾が選ばれた。1961年には巨人軍の主将を務める。その後、当時の監督川上哲治との確執などもあり出場機会が減り、1965年のシーズン終了後に現役を引退した。現在は三重県鈴鹿市のゴルフ場施設鈴鹿カンツリークラブの副社長を務める。 捕手にして俊足、長打力のある打撃、強肩、そして闘志溢れるプレーから、戦後の「巨人軍最強の捕手」「吉原二世」という評価もされている。【エピソード】:森がリードが上手かったとの定評があるが、当時の巨人軍の投手の多くが「藤尾さんのリードはよかった」「藤尾さんに受けてもらいたかった」という感想を洩らしており、必ずしも森のほうが捕手として優れていたわけではないことを示している。ただ森は粘り強く、怪我にも強く、絶対に試合を休まなかったことが、当時の首脳陣の評価を得たと言える。』


1936年 - 土居甫、振付師(+2007年)

『土居 甫(どい はじめ、1936年(昭和11年)10月8日 - 2007年(平成19年)9月14日)は、振付師。愛媛県北宇和郡津島町(現・宇和島市)出身。血液型A型。日本振付家協会常任理事。【経歴】:1955年、作家の獅子文六を頼って上京し書生をした後、東京芸能学校(一期生)に入学。1957年に東宝演劇部所属となり、東宝ミュージカル・東宝歌舞伎・日劇ダンシングチーム・日劇ミュージックホール・新宿コマ劇場などに出演。1961年から1969年まで日本テレビ「シャボン玉ホリデー」にレギュラー出演し、ザ・タイガース、ザ・ピーナッツなどの振付を担当。1971年から「スター誕生!」で、桜田淳子、ピンク・レディーなどの振付を担当。また「笑っていいとも!」のいいとも青年隊の振付を1982年10月の番組開始時から担当していた。「笑っていいとも!」の「テレフォンショッキング」の第1回ゲスト桜田淳子から紹介され出演したのが土居甫だった(1982年10月5日(火))。(お友達紹介は元ピンク・レディーの増田恵子)。パーキンソン病を発症した後も、闘病しながら振付師としての活動を続けていたが、2007年9月14日に悪性リンパ腫で死去。70歳没。信子(しんし、戒名にあたる)は「天童子甫耀院」。』


1936年 - 中馬弘毅、衆議院議員

『中馬 弘毅(ちゅうま こうき、1936年10月8日 - )は日本の政治家。自由民主党所属の前衆議院議員(当選9回)。父親は大阪市長を務めた中馬馨。【人物】:◆道路特定財源を資金源とする道路運送経営研究会(道路特定財源の一般財源化に反対している)から献金を受けている。◆2007年12月、北朝鮮との国交正常化実現を目指す議員連盟、自民党朝鮮半島問題小委員会を立ち上げ、顧問に就任した。◆2009年6月、自民党大阪府連の会合で、公務員制度改革について言及した際、「悪いことをするのはノンキャリアだ。出世できないから、職場で、法律違反を行う。キャリア(上級職)は、そういうことには手を染めない」と、キャリア官僚を庇った上、下級職に全責任を押し付ける発言をした。【宗教】:2006年に新興宗教崇教真光の大阪大道場遷座祭に来賓として出席。【主な所属議員連盟】:●自民党遊技業振興議員連盟(パチンコ議連)会長。●自民党朝鮮半島問題小委員会顧問。●神道議員連盟。』


1939年 - 北原謙二、歌手(+ 2005年)

『北原 謙二(きたはら けんじ、本名:北原謙太郎(きたはら けんたろう)、1939年10月8日 - 2005年1月26日)は、歌手。【来歴・人物】:大阪府出身。ジャズ喫茶で歌っていた事が縁で、鈴木栄治とブルーカーボーイズのメンバーとして上京。 その後、コロムビアレコードのディレクターにスカウトされ、1961年歌手デビュー。NHK紅白歌合戦に2回出場している。1991年3月に高血圧症脳内出血で倒れたが、左半身マヒと闘いながらリハビリを重ね、3年後に復帰。その後は全国各地の福祉施設への慰問活動などを積極的に行っていたが、2005年1月26日午後10時1分、虚血性心疾患のため都内の病院で死去。【NHK紅白歌合戦出場歴】:第13回 (1962年12月31日、東京宝塚劇場) 『若いふたり』。第14回 (1963年12月31日、東京宝塚劇場) 『若い明日』。 』


1939年 - アラダー・ペゲ、ミュージシャン(+ 2006年)

『アラダー・ペゲ(Aladár Pege、1939年10月8日 - 2006年9月23日)は、ハンガリー出身のジャズベース奏者。ピッチ・カート奏法の巧みさやクラシック音楽の演奏で知られ、「ベースのパガニーニ」とも称されていた。【来歴】:ブダペスト生まれ。音楽一家であったこともあり、15歳の頃には本格的な演奏活動を行っていた。 1970年のモントール・ジャズ・フェスティバルで最優秀演奏者に選出された。アメリカ人ピアニストのウォルター・ノリスとコンビを結成したり、ニューヨークのカーネギー・ホールでハービー・ハンコックと共演をした事もあった。これらは、当時国外渡航を厳しく制限していたハンガリーを含む東ヨーロッパ共産圏の人物としては異例な出来事であった。晩年の十年間は、出身校でもあるリスト音楽院(ブダペスト)で教鞭を執っており、ここでも「パガニーニ」の愛称で親しまれていた。』


1941年 - 三田佳子、女優

『三田 佳子(みた よしこ、1941年10月8日 - )は、日本の女優。三田佳子事務所所属(マネジメントは生島企画室と業務提携)。大阪府大阪市生まれ。生後半年で東京に移り、3歳の年に一家で山梨県へ疎開、終戦後は下北沢を経て中野で育つ。本名:高橋 嘉子(たかはし よしこ、旧姓:石黒(いしぐろ))。夫は元NHKプロデューサーの高橋康夫。長男は森宮隆、次男は高橋祐也。女子美術大学付属中学校・高等学校卒業。【来歴・人物】:芸名である三田佳子の「三田」は、慶應義塾大学野球部のファンだったため[2]。中学・高校時代から多数のテレビに出演。高校在学中から映画会社数社にスカウトされるが断り続け、高校を卒業した1960年春に第二東映へ入社した。同年、『殺られてたまるか』で女優デビュー。最初から主役級で起用され、佐久間良子に次ぐ東映現代劇の看板女優として活躍。1967年、フリーになり、映画のほか、テレビドラマ・舞台でも活動する。1984年の映画『Wの悲劇』で各映画賞を受賞する。1989年 - 1990年に、『NHK紅白歌合戦』の紅組司会を務める。納税者番付では俳優・タレント部門で1991年から1994年まで4年間連続トップとなり、CMにも多く出演する。ところが、1998年と2000年の2度にわたり次男の高橋祐也が覚せい剤取締法違反で逮捕される。記者会見では「母が女優ということで未成年である息子の事件が報道されてかわいそう」「(高校生の)次男の小遣いは月50万円」とも話すが、「原因は私が人生をかけて究明いたします」とも話す。このため、当時出演していたCM8本すべて降板、一旦女優活動を休止するが、2003年に水野晴郎の『シベリア超特急3』に出演し、その後は映画『海猫』、テレビドラマ『いま、会いにゆきます』など仕事を再開し、2007年9月16日放送の『ひまわり〜夏目雅子27年の生涯と母の愛〜』では、仲間由紀恵とのダブル主演となる。しかし、2007年11月15日、祐也が再度覚醒剤所持の現行犯で逮捕される。翌日の会見で「すべては私たち夫婦の教育の失敗」と全面的に謝罪、「引退も考えた」とするが、同年12月1日からの舞台『エドの舞踏会』については降板しないとした。一方で、祐也に対し、月70万円の小遣いを渡していた。』


1944年 - 佐藤友美、女優

『佐藤 友美(さとう ともみ、1941年10月8日 - )は、女優。愛知県名古屋市出身。血液型:O型。【来歴・人物】:金城学院大学短期大学部中退。俳優座養成所第13期生卒業。同期には細川俊之・佐藤オリエ・真屋順子らがいる。大人びた都会派の美貌にファッションモデルの様なスラリとしなやかな肢体はスクリーンに映え数多くの映画に華を添えた。近年、芸能活動をセーブしており、メディアへの露出も少ない。病気療養か、引退したかは不明。』


1946年 - アレクサンドル・ゴルシコフ、フィギュアスケート選手

『アレクサンドル・ゲオールギエヴィチ・ゴルシコフ(ロシア語: Александр Георгиевич Горшковアリクサーンドル・ギオールギイェヴィチュ・ガルシュコーフ、ラテン翻字: Aleksandr Georgievich Gorshkov、1946年10月8日 - )は、旧ソビエト連邦出身の男性フィギュアスケート選手。パートナーは妻でもあるリュドミラ・パホモワ。1976年インスブルックオリンピックアイスダンス金メダリスト。1970、1971年、1972年、1973年、1974年、1976年世界フィギュアスケート選手権アイスダンスチャンピオン。1988年世界フィギュアスケート殿堂入り。』


1947年 - 寺泉憲、俳優

『寺泉 憲(てらいずみ けん、1947年10月8日 - )は、日本の俳優、ジャズ歌手。神奈川県平塚市出身。旧芸名及び本名は寺泉 哲章(てらいずみ のりあき)。【来歴・人物】:慶應義塾大学法学部中退。劇団雲、演劇集団 円を経て、現在に至る。主な出演ドラマに「ただいま放課後」、「オレゴンから愛」、「ひまわり」、「さくら」などがある。また「澪つくし」、「独眼竜政宗」、「八代将軍吉宗」、「葵徳川三代」などジェームス三木脚本作品の常連俳優でもある。長身で爽やかな印象の二枚目俳優だが、二時間ドラマではそのイメージを逆手にとって、犯人役にキャスティングされることが多い。大学時代の英語劇出演が俳優デビューのきっかけであり、「オレゴンから愛」や「さくら」などではその英語力を活かしアメリカ日系2世の役を演じた。NHKの朝の連続ドラマ「ひまわり」(1996年)においては、学生結婚で二人の子供に恵まれたものの(娘役は松嶋菜々子)子育てや自分の将来に自信を喪失し、長年逃亡生活に陥ったというだらしない父親から、自分を見つめ直し家庭に戻っていくという父親という難しい好対照の役を好演する。(大学時代の同級生役の奥田瑛二とのやりとりも絶妙)勿論、役の上での設定ではあるが、妻役の夏木マリとの夫婦役は美男美女の理想の夫婦像との声が高かった。還暦を過ぎたとは思えない甘いマスクと風貌、躍動感は昔から変わらない。土曜スペシャル(テレビ東京)で共演の田尾安志(元プロ野球選手)も寺泉が主導型のロケ展開に「あの方還暦過ぎてるなんて思えない程若い。年をごまかしてるんじゃないかと思うぐらい」と感心していた。特にテレビ等でお目にかかる訳ではないがジャズ歌手としての一面も持っている。八王子地区に初めて出来た芸能人養成学校である「八王子芸能スクール」(東京都八王子市散田町)の後援者として、JR中央線や京王線沿線や近隣に貼られた同学校のポスターに、寺泉の顔写真・コメントが掲載される。』


1947年 - 龍反町、元プロボクサー

『龍 反町(りゅう そりまち、1947年10月8日 - )は、日本の元プロボクサーである。本名は反町 則雄(そりまち のりお)。東京都大田区出身。野口ボクシングジム所属。元日本およびOBF東洋ウェルター級王者。【来歴】:1965年6月20日、中村興治(リキ)戦でデビューするが、判定負け。1969年1月6日、窪倉和嘉(横浜協栄)に判定勝ちし、日本ウェルター級王座を奪取。その後、日本王座を4度防衛。1970年10月28日、任炳模に9RKO勝ちし、OBF東洋同級王座を奪取。同年12月22日、日本王座返上。OBF王座3度防衛後の1973年4月20日、輪島功一が持つ1階級上のジュニアミドル級世界王座に挑戦するが、判定負けで世界王座獲得ならず。1974年10月8日、オスカー・アルバラード(米国)が持つ同王座に再挑戦も7RKO負け。1978年2月11日、カルロス・パロミノ(米国)が持つWBC世界ウェルター級王座に挑戦するが、7RKO負け。OBF王座11度防衛後の1979年3月26日、李萬徳(韓国)に6RKO負けを喫し王座陥落。この試合を最後に現役引退。』


1948年 - クロード・ジャド、女優(+ 2006年)

『クロード・ジャド(Claude Jade, 1948年10月8日 - 2006年12月1日)は、フランスのディジョン生まれの女優。本名はクロード・マルセル・ジョレ(Claude Marcelle Jorré)。【来歴】:ディジョンで演劇を学んだのち、パリへ出て舞台のキャリアを積んだ。ピランデッロ作『ヘンリー4世』に出演しているところをフランソワ・トリュフォー監督に見いだされ、1968年『夜霧の恋人たち』で映画デビュー。1969年にはアルフレッド・ヒッチコックの『トパーズ』に出演し国際的に活躍する。1976年には日本映画『北の岬』にも出演した。2004年の映画『A San Remo』が最後の出演作品。その後も映画、舞台、テレビで活躍し、1998年にレジオン・ドヌール5等勲章を授与された。一時トリュフォーと婚約したこともあるが、1972年に外交官と結婚し、一子がある。2006年12月1日、パリ郊外の病院で死去。58歳没。彼女の知人のさる脚本家によると、目の腫瘍を患っていたという。』


1948年 - ジョニー・ラモーン (en:Johnny Ramone)、ギタリスト(ラモーンズ)(+ 2004年)

1948年 - バーニー・ウイリアムス、元プロ野球選手

1948年 - ゴットフリート・ヘルンヴァイン、芸術家

1949年 - シガニー・ウィーバー、女優

1950年 - 宮本隆治、フリーアナウンサー、元NHKアナウンサー

1952年 - 宮澤隆、TBSアナウンサー

1955年 - 黒坂幸夫、元プロ野球選手

1955年 - 大竹伸朗、現代美術家

1957年 - 宮下あきら、漫画家

1959年 - 二村忠美、元プロ野球選手

1961年 - 岩切英司、元プロ野球選手

1962年 - 軽部真一、フジテレビアナウンサー

1963年 - 光宗信吉、作曲家

1964年 - 辻本茂雄、吉本新喜劇座長

1965年 - デニス・アーウィン、サッカー選手

1966年 - 升田尚宏、TBSアナウンサー

1966年 - 湯舟敏郎、元プロ野球選手・野球解説者

1966年 - 吉井和哉、ミュージシャン

1967年 - 安東弘樹、TBSアナウンサー

1967年 - 田口浩正、俳優

1968年 - ズボニミール・ボバン、元サッカー選手

1968年 - 鈴木一真、俳優

1970年 - 野村哲也、イラストレーター、

1970年 - マット・デイモン、映画俳優

1970年 - デーブ・ドスター、元プロ野球選手

1971年 - 小久保裕紀、プロ野球選手

1972年 - 上原潤之助、三味線演奏家・音楽プロデューサー

1972年 - 中ノ瀬幸泰、元プロ野球選手

1974年 - 室伏広治、ハンマー投選手

1974年 - 田波涼子、ファッションモデル

1975年 - 山本麻祐子、フジテレビアナウンサー

1976年 - 鮎川陽子、ファッションモデル・デザイナー

1976年 - toi8、漫画家、イラストレーター、アニメーター

1977年 - はっとりみつる、漫画家

1977年 - DJ SHUHO、DJ

1978年 - 中山エミリ、女優・タレント

1978年 - 村西辰彦、元プロ野球選手

1979年 - 小日向しえ、女優

1979年 - 森谷昭仁、プロ野球選手

1979年 - 山田将司、ミュージシャン(THE BACK HORN)

1979年 - 八幡えつこ、タレント

1979年 - クリスタナ・ローケン、モデル、女優。「ターミネーター3」のT-X役。

1980年 - 新妻聖子、ミュージカル女優

1980年 - 安原政俊、元プロ野球選手

1980年 - 川添將大、元プロ野球選手

1981年 - 矢作美樹、女優

1981年 - 載寧龍二、俳優

1982年 - 児玉新、サッカー選手

1982年 - 灘ジュン、AV女優・ストリッパー

1984年 - 春日萌花、女子プロレスラー

1985年 - ウエンツ瑛士、俳優、タレント、ミュージシャン

1986年 - 猪塚健太、俳優

1986年 - 徐健焜、フィギュアスケート選手

1987年 - 平野綾、声優

1987年 - 中村優一、俳優

1988年 - 玉置慎也、サッカー選手

1989年 - アルマン・トラオレ、サッカー選手

1989年 - 三井麻由、グラビアアイドル、タレント

1990年 - 中田ちさと、AKB48

生年不詳 - 松原雅子、声優


【PS.#--)。o0<心の声>:基本、声を聴けば芸名・スリーサイズ・出演番組などがわかっていた頃と違って、最近はどうしても体の一部分や経歴の一部でも見ない限り、誰だかわからないという自分らしくない事を発見っ(汗)情報が膨大なので充実してて満足をしてるものの、当時とのギャップに現実逃避する事数知れず&現代病といわれる目の衰えは、常に細めで見るので自然治癒でなんとかせねば。リハビリではじめてるとは言っても、もっとこう覚醒していきたいなと思いますぅ~。今日も勉強になったぁ~。そいではまたぁ~】

スポンサーサイト
Posted by 渡瀬側治 at 2010/10/08 23:57 | Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。