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10月4日の誕生花は「西洋からはな草(Common Hop)」で花ことばは「無邪気(Innocence)」。花占いと今日誕生日の著名人は?


「西洋からはな草(Common Hop)」はクワ科の西アジアが原産国になります。


漢字では「西洋唐花草」。ビールの苦味や香りをつけるために栽培される、西アジア原産のつる性植物です。「Hop」とも呼ばれています。


ビールは、人類の歴史と共に歩き始めました。ホップの利用もかなり古く、15世紀ごろから、さかんに使われるようになりました。「ホップはビールの魂である」とドイツで言われています。イギリスでは、ケント州のホップが有名です。アメリカで「Hop」とは、麻薬、特に「アヘン」を指す言葉になります。気をつけたほうがいいでしょう。


10月4日の誕生花は「西洋からはな草(Common Hop)」。

花ことばは「無邪気(Innocence)」。

【10月4日の花占いは?】


茶目っ気たっぷりのあなたは、開放的な性格の持ち主です。ときとして「いたずら心」が度を越し、人間関係を壊すような失敗もあります。しかし、あなたの無邪気さは何者にも代えがたい魅力。愛する人に出会って、それは大きく花開き、楽しい人生となる事でしょう♪そしてあなたは、安らぎや平和、安定を求めるグリーンがラッキーカラーになります。グリーンは体調運・仕事運・金運、そして身近な人ともつながりを緩やかに安定させ改善してくれます。注意する点を言えば、にごり過ぎ・暗すぎるグリーンだと、逆にネガティブに作用するので、そこだけは注意が必要です☆

【<366日の著名人>:☆10月4日生まれの著名人は?】


1289年 - ルイ10世、フランス王(+ 1316年)

『ルイ10世(Louis X, 1289年10月4日 - 1316年6月5日)は、フランス王(在位:1314年 - 1316年)およびナバラ王(ルイス1世、在位:1305年 - 1316年)。フランス王フィリップ4世とその妃であるナバラ女王フアナ(ジャンヌ)1世の長男。』


1472年 - ルーカス・クラナッハ、画家(+ 1553年)

『ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach der Ältere, 1472年10月4日 クローナハ、オーバーフランケン - 1553年10月16日、ヴァイマル)は、ルネサンス期のドイツの画家。同名の息子も画家であるため、ルーカス・クラナッハ (父) と表記されることが多い。クラナハ、クラーナハとも表記される。【出生】:彼が芸術家として最初に製作した絵画は1504年のものである。1508年以前に、彼はアルブレヒト・デューラーやハンス・ブルクマイアーらと競いながら、ヴィッテンベルクにあるCastle Churchの数多くの祭壇画を描いていた。ヴィッテンベルクに工房を構え、当地の領主ザクセン選帝侯フリードリヒ3世に御用絵師として仕えた。主に宗教画で多数の作品を残したほか、同時代人の宗教改革者マルティン・ルターの友人であったため、彼とその家族の肖像画を多く残している。クラナッハの描く、腰の細くくびれた独特なプロポーションのヴィーナス像は、ティツィアーノやジョルジョーネのヴィーナスとはまた異なった、独特の官能美をかもし出している。【代表作】:「赤子を喰う狼人間」(1512)ゴータ公国美術館。アダムとイヴ (1528) シュテーデル美術館。マルティン・ルターの肖像 (1529) ウフィツィ美術館。ユディト (1530) ウィーン美術史美術館。ヴィーナス (1532) シュテーデル美術館。』♪


1515年 - ルーカス・クラナッハ(子)、画家(+ 1586年)

『ルーカス・クラナッハ (子) (Lucas Cranach the Younger, 1515年10月4日 – 1586年1月25日)はルネサンス期のドイツの画家。同名の著名な画家であった父ルーカス・クラナッハの工房で絵画を学ぶ。父親が亡くなった後は、父親の工房を引き継いだと見られている。多くのポートレイトや寓話的・神話的な作品を残したが、父親の作風を受け継いでいるため、どちらに帰属するのか未だに判明していない作品もある。【主な作品】:キリストと姦淫の女 Christ and the Woman Taken in Adultery (1532年以降) - 84x123 cm、エルミタージュ美術館。Stag hunt of Prince Johann Friedrich (1544) - 116 x 176,5 cm、美術史美術館、ウィーン。ルーカス・クラーナハ (父) 77歳の肖像 Portrait of Lucas Cranach the Elder at age 77 (1550) - 67×49 cm、ウフィツィ美術館、フィレンツェ。』♪


1615年 - フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)、プファルツ=ノイブルク公(+ 1690年)

『フィリップ・ヴィルヘルム(Philipp Wilhelm, 1615年10月4日 - 1690年9月12日)は、プファルツ選帝侯(在位:1685年 - 1690年)。元はプファルツ=ノイブルク公(在位:1653年 - 1690年)、ユーリヒ=ベルク公(在位:同)であった。父はプファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルム、母はバイエルン選帝侯マクシミリアン1世の妹(バイエルン公ヴィルヘルム5世の娘)マグダレーネである。スウェーデン王カール10世は又従弟に当たる。カール2世が嗣子なくして死去したため、プファルツ選帝侯位を継承した。フリードリヒ3世からカール2世に至るプファルツ=ジンメルン家系のプファルツ選帝侯はいずれもプロテスタントであったが、フィリップ・ヴィルヘルムの継承によってカトリックに戻ることになった。遠縁のフィリップ・ヴィルヘルムによる選帝侯位継承に対して、フランス王ルイ14世は王弟オルレアン公フィリップ1世の妃でカール2世の妹であるエリザベート・シャルロットの継承権を主張し、ラインラントへ侵攻した。これを契機として、反仏同盟であるアウクスブルク同盟諸国とフランスとの間でアウクスブルク同盟戦争(プファルツ継承戦争ともいう)が勃発した。既に高齢だったフィリップ・ヴィルヘルムは、戦争中に没した。』


1626年 - リチャード・クロムウェル、イギリスの第2代護国卿(+ 1712年)

『リチャード・クロムウェル(Richard Cromwell, 1626年10月4日 - 1712年7月12日)は、イングランドの政治家、護国卿(在任:1658年 - 1659年)。清教徒革命の指導者で、革命後に護国卿となったオリバー・クロムウェルの長男。1654年から国会議員となって父を補佐し、1657年には国会議員とオックスフォード大学の総長を兼任している。1658年、父の後を継いで第2代護国卿となったが、リチャードには父ほどの器量や才能がなく、しかも議会を解散して父以上の独裁政治を行おうとしたため、議会の反発を買い、翌年、就任から8ヶ月で辞任を余儀なくされた。父オリバーの晩年から共和政は崩壊しつつあったが、リチャードが後を継いだことは、崩壊をより促進させる結果となった。1660年に王政復古が実現すると、報復を恐れてフランス王国に亡命する。以後は名前を変えてパリで過ごしていたが、1680年頃にイングランドに帰国して、その後は政界に関わらずに余生を送った。1712年、87歳で死去。』


1665年(寛文5年8月26日)- 徳川綱教、第3代和歌山藩主・徳川吉宗の兄(+ 1705年)

『徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、紀伊国紀州藩第3代藩主。【生涯】:寛文5年(1665年)8月26日、紀州藩第2代藩主・徳川光貞の長男として生まれる。幼名は長光丸。寛文10年(1670年)1月7日、幼名を長福丸と改める。元禄11年(1698年)、光貞が隠居すると家督を継ぎ、第3代藩主に就任。倹約を行い、藩の財政を建て直そうとしたが、宝永2年(1705年)5月18日に志半ばで薨去した。享年41(満39歳没)。子がなく、その後を継いだ弟・頼職も同年のうちに26歳の若さで卒去し、第5代藩主に就任した吉宗が再び倹約を実行する。綱教は第5代将軍・徳川綱吉の娘婿として将軍家世継ぎと目されたが、綱吉より早く亡くなったため、綱吉はやむなく甥の綱豊を徳川家宣として後嗣にしたという説がある。』


1720年 - ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ、画家・建築家(+ 1778年)

『ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi, 1720年10月4日 - 1778年11月9日)は、18世紀イタリアの画家、建築家である。ローマの景観を描いた版画でも知られる。ヴェネツィア出身。1740年にローマに出て、ローマ教皇の支援を受けて古代遺跡の研究を進めた。また版画を学び、ローマの古代遺跡や都市景観を版画に描き、『ローマの古代遺跡』『ローマの景観』などを刊行した。古代遺跡を描いたピラネージの細密な版画は、新古典主義建築の展開に大きな影響を与えた。』


1791年 - レオポルト・フォン・ヘニング、哲学者(+ 1866年)

『レオポルト・フォン・ヘニング(Leopold von Henning, 1791年10月4日 - 1866年10月5日)は、ドイツの哲学者。ヘーゲル右派の人物として知られている。ブルシェンシャフトのメンバーとして、カローヴェ事件に参加し、逮捕・投獄されるといった経験をもつ。やがて、ヘーゲルに師事し、助手を経てベルリン大学教授に就任。ヘーゲルの国家哲学を継承した。また、ゲーテの色彩論とヘーゲルの自然哲学の一致も主張した。編著作に、ベルリン版ヘーゲル全集の「大論理学」「エンチクロペディー」の編纂のほか、 「厳密な知識と哲学の関係」(1821)「ゲーテの色彩論についての公開講義序論」(1822) 「プロイセンの憲法問題における合意」(1845) など』


1814年 - ジャン=フランソワ・ミレー、画家(+ 1875年)

『ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet, 1814年10月4日 - 1875年1月20日)は、19世紀のフランスの画家。【生涯と作品】:パリの南方約60キロのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、今日「バルビゾン派」と称している。ミレーのほか、テオドール・ルソー、ディアズ、トロワイヨンなどがバルビゾン派の代表的な画家であり、カミーユ・コローなども先駆者に数えられる。バルビゾン派の中でも、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれた。ミレーの代表作のひとつである『種まく人』が岩波書店のシンボルマークとして採用されたのは1933年(昭和8年)のことであった。1977年(昭和52年)、その『種まく人』がサザビーズのオークションで競り落とされ、日本に請来された時は大いに話題になった。1814年、フランスノルマンディー地方ラ・マンシュ県の海辺にあるグリュシーという小さな村に生まれた。8人兄弟の長男、父は農民であり村の教会の合唱指揮者でもあった。大原美術館にあるパステル画『グレヴィルの断崖』は、晩年の1871年頃の制作ではあるが、故郷の海岸の風景を描いたものである。19歳の時、グリュシーから十数キロ離れたシェルブールの街で絵の修業を始め、22歳の1837年、パリへ出て、当時のアカデミスムの巨匠であったポール・ドラローシュ(1797-1856)に師事する。デッサンや模写のほか、聖書や神話など画題となる古典文学にも学ぶ。26歳の時、肖像画がサロン(官展)に初入選するが、奨学金が停止されていたため、生活は貧く肖像画や裸体画を描いた。この頃の画風はマニエル・フルーリ(華やかな手法)と評されており、繊細で柔らかなタッチと明るい色彩が特徴で、神話画などを多く手がけている。1841年、シェルブールで仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚しパリに住むが、彼女は3年後の1844年に肺結核により病死する。1846年には同棲中だったカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性との間に第1子が誕生。このカトリーヌと正式に結婚するのはかなり後の1853年のことであるが、それ以前の1849年、パリにおけるコレラ流行を避けて、ミレーはパリの南方約60キロの、フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾンへ移住し、以後同地で制作を続けた。この頃には共和国政府からの依頼もあり、経済的にも安定して農民画に専念し、『種まく人』をサロンへ出品するのは翌1850年のことである。ミレーの代表作に数えられる『晩鐘』『落穂拾い』などの代表的農民画は、バルビゾン移住後の作品である。』♪


1822年 - ラザフォード・ヘイズ、第19代アメリカ合衆国大統領(+ 1893年)

『ラザフォード・バーチャード・ヘイズ(Rutherford Birchard Hayes, 1822年10月4日 - 1893年1月17日)は、第19代アメリカ合衆国大統領。ホワイトハウスで就任の宣誓をした初の大統領。【大統領職】:ヘイズは1876年の大統領選挙において史上まれに見る僅差で勝利した大統領である。ヘイズの対抗馬は民主党のサミュエル・ティルデンニューヨーク州知事であった。選挙後の最初の開票結果では、選挙人票でティルデンが184票を獲得しヘイズの165票を上回ったが、まだ集計されていない票が20票あった。南部のサウスカロライナ州(7票)・フロリダ州(4票)・ルイジアナ州(8票)とオレゴン州の一人の選挙人の票の20票が論争となり、議会は15人の委員からなる選挙委員会を作り問題を決着させる法律を通した。委員会は論争のあった選挙人票20票全てをヘイズのものとする裁決を下し、ヘイズは185対184で選挙を制した。この選挙結果に不信を抱く人々は、裏で共和・民主両党による裏取引があったと噂した(南部がヘイズの当選を黙認する代わりに、共和党は南部から連邦軍が引き上げることに同意しレコンストラクションを終わらせるという裏取引があったとされる)。結果、ヘイズは“His Fraudulency”(イカサマ閣下)と呼ばれることとなった(ちなみに、近年まれに見る接戦であった2000年アメリカ合衆国大統領選挙でも、一般投票ではジョージ・W・ブッシュ50,456,002(47.87%)に対しアル・ゴア50,999,897(48.38%)と敗者の方が上回っている)。このため、4ヶ月近くも大統領が決定しない異例の事態となった。ヘイズは南北戦争以降、連邦軍が駐留していた南部から兵を撤収させた。これにより、南北戦争以降黒人解放が進んでいた南部では再び旧白人支配層が実権を握り、黒人への人種差別が再び始まった。ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言した。また、労働運動に対しても軍隊を動員してストライキを弾圧するなど強硬な手段を取った。』


1870年(明治3年9月10日) - 木村栄、天文学者(+ 1943年)

『木村 栄(きむら ひさし、明治3年9月10日(1870年10月4日)- 昭和18年(1943年)9月26日)は、日本の男性天文学者、理学博士。石川県金沢市出身。寺尾寿に位置天文学を、田中館愛橘に地球物理学を学んだ。木村の長女・伊登子は物理学者の茅誠司と結婚したので、茅は木村の娘婿にあたる。【業績】:1902年に緯度変化の※Z項を発見した。(※ Z 項(Zこう、英: Z term)とは、岩手県水沢の緯度観測所初代所長であった木村栄により自転軸の傾きに関する方程式に加えられた Z のことである。木村項ともいう。【Z 項導入の理由】:地球の自転軸は形状軸(南北軸)とは完全に一致せず、一定の周期で形状軸の周囲を移動する。その公式は Δφ = X cos λ + Y sin λ とされていたが、これでも完全に誤差を求めることはできなかった。そのため物理学者木村栄は Δφ = X cos λ + Y sin λ + Z と修正し、正しい方程式として認められた。)』


1876年 - 新村出、広辞苑の編纂者として知られる言語学者(+ 1967年)

『新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン資料研究などを行った日本人の草分けである。【人脈・略歴】:山口県に旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれる。「出」という名は父親が山口県と山形県の県令であったことから「山」という字を重ねて命名された。1889年(明治22年)4月に父隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶新村猛雄(慶喜の側室新村信の養父)の養子となる。慶喜の多彩な趣味の1つに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。静岡尋常中学、一高を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学博言学科卒業。上田萬年の指導を受けた。国語研究室助手を経て、1902年(明治35年)、東京高等師範学校教授。1904年(明治37年)、東京帝国大学助教授を兼任。1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授。言語学講座を担当し、1919年(大正8年)には文学博士。1936年(昭和10年)に定年。終生京都に在住し、辞書編纂に専念し、戦後に発刊された『広辞苑』の編纂者(息子の新村猛が共同作業に当たった、初版1955年)として知られる。新仮名遣いには反対し、「広辞苑」の前文は、新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書いた。また形容動詞を認めないため、「広辞苑」には形容動詞の概念がない。その業績は『新村出全集』(全15巻、筑摩書房)にまとめられている。また南蛮交易研究や吉利支丹文学(キリシタン版関連)は、『吉利支丹文学集』(全2巻)と『南蛮更紗』が、平凡社東洋文庫で再刊されている。1956年(昭和31年)文化勲章受章。1967年(昭和42年)没時に、賜銀杯一組。優れた日本語研究に対し、毎年授与される「新村出賞」がある。新村はエスペランティストでもあった。1908年、ドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表としてJEA代表の黒板勝美とともに参加している。』


1888年 - 中原悌二郎、彫刻家(+ 1921年)

『中原 悌二郎(なかはら ていじろう、1888年10月4日 - 1921年1月7日)は北海道釧路市生まれの彫刻家。大正期日本を代表する彫刻家の一人。17歳の時、画家を志して上京。白馬会研究所・太平洋画会研究所洋画部で学び、中村彝と親交を結ぶ。その後荻原碌山の感化によって彫刻に転じ、太平洋画会研究所彫塑部で新海竹太郎に師事。1910年第4回文展に「老人の首」が初入選。1912年ロダンの実作に初めて触れて、深く啓発される。1916年日本美術院の研究会員に転じ、佐藤朝山・石井鶴三らとともに研鑽を重ねた。同年の第3回院展に発表した「石井氏の像」で樗牛賞を受けて院友となり、以後も同展に「行乞老人像」「若きカフカス人」「憩える女」などの作品を次々と発表。その作風は写実に基づきながらも堅牢な構築性を示し、内面表現にも優れる。1919年の「平櫛田中像」を遺作として、32歳の若さで没した。晩年の芥川龍之介が、講演先で「若きカフカス人」見て『この中原氏のブロンズの「若者」に惚れる者はないか。この若者はまだ生きているぞ』と発言したことはよく知られている。』


1895年 - バスター・キートン、喜劇俳優(+ 1966年)

『バスター・キートン(Buster Keaton, 1895年10月4日 - 1966年2月1日)はアメリカの喜劇俳優、映画監督、脚本家。本名はジョセフ・フランク・キートン(Joseph Frank Keaton)。チャーリー・チャップリンやハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。【芸風や作品の特徴】:「偉大なる無表情」を一切崩さずに行う、体を張ったアクションとギャグが最大の特徴といえる。偉大なる無表情とは、喜怒哀楽を表情に出さない。その表情と命がけのアクションとのギャップがファンに愛されている理由の1つだともいえる。急斜面を転がり落ちたり、列車の上を全速力で駆け抜けたりするなど、非常にアクロバティックである。アクションに限らず、映像技術や特撮技術を駆使したような、トリック要素が多く盛り込まれたギャグも多用する。作品の特徴であるが、チャップリン作品に形容されるような悲劇的な要素はあまり見受けられず、スラップスティック・コメディにロマンス要素が加味された作品が多い。基本的にはハッピーエンドである。そしてキートン演じる主人公のそのほとんどが、少し間抜けた性格の持ち主だがロマンティストである。しかしこれらは、キートンが自らのプロダクションで製作した1920年代に特に見受けられる特徴である。MGM移籍後、キートンは主演作品において脚本を書くことはおろか監督を務めることさえ激減したため、単なる間抜けな主人公によるコメディ作品というイメージが強くなった。【再評価】:1950年代はTVショーの出演やヨーロッパでの舞台を続けるなど、仕事に恵まれた時期だった。映画でも1950年にはビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』に出演。また1952年には『ライムライト』に出演、チャーリー・チャップリンと初共演を果たした。これらの仕事や、黄金時代のフィルムが倉庫から探し出されてリバイバル上映されるなど、キートンへの再評価が高まった時期である。1957年には伝記映画『バスター・キートン物語』も公開された。最晩年の出演作、『ローマで起こった奇妙な出来事』 では、セリフも少なく、ただそのへんを走っているだけのマラソンランナー役(最後の大どんでん返しの中心人物だが)だったが、それでもタイトルロールでは別格扱いだった。』


1898年 - 増田甲子七、政治家(+ 1985年)

『増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10月4日 - 1985年(昭和60年)12月21日)は、昭和期の政治家。吉田茂の側近として、運輸大臣、労働大臣、内閣官房長官、自由党幹事長などを歴任。【来歴】:1898年(明治31年)10月4日長野県東筑摩郡坂北村(現筑北村)に生まれる。1922年(大正11年)京都帝国大学英法科を卒業後、内務省に入省する。1945年(昭和20年)10月福島県知事、1946年(昭和21年)4月北海道庁長官を歴任。北海道庁長官時代に炭鉱労組、国鉄労組によるストライキが頻発したが、屈することが無かった。この姿勢が吉田茂に注目され、1947年(昭和22年)運輸大臣に抜擢される。同年に長野4区(当時)から第23回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。以後当選10回。吉田側近として以後労働大臣、官房長官、建設大臣を歴任し、1951年(昭和26年)には自由党幹事長に就任しサンフランシスコ講和条約に向けて野党との交渉に尽力した。吉田退陣後、自由民主党に参加。1966年(昭和41年)、第1次佐藤栄作内閣で防衛庁長官として入閣する。1968年(昭和43年)の新宿騒乱前夜、過激派学生が防衛庁を襲撃し、これに対し平和と秩序を守る自衛隊の本拠が暴力学生に占拠されては、国民に不安を招くとして、隊員に武装させて立哨を命じた。自他ともに「明治の硬骨漢」と称され、酒、タバコを一切やらず、敬虔なキリスト教徒でもあったことから暴力や脅迫に対しては生涯、剛直に対処した。1968年(昭和43年)勲一等旭日大綬章を受章。1979年(昭和54年)10月に政界を引退した。弁護士の傍ら、自民党全国国会議員会会長として活躍した。』


1911年 - 日野原重明、医師

『日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年(明治44年)10月4日 - )は日本の医師。医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院理事長。同名誉院長。その他の栄誉に名誉博士(人文科学)(トマス・ジェファーソン大学)、名誉博士(マックマスター大学)。東京都名誉都民。東京都中央区名誉区民。文化功労者、文化勲章、東京都文化賞、日本医師会最高優功賞、日米医学科化学者賞(フィラデルフィア医師会、日本キリスト教文化協会日本キリスト教功労者。勲等は勲二等瑞宝章。【来歴】:1911年、9人家族の次男坊として山口県に生まれる。父・善輔は牧師をしていたが、アメリカに留学、帰国後に広島女学院を拡大し、後には学院長にも就任した。父の影響を受け、7歳で受洗。諏訪山小学校、神戸一中、関西学院中学部、京都の第三高等学校を経て京都帝国大学医学部に入学。学費は教会関係者の寄付を仰いだ。在学中に結核にかかり、大学を休学。当時実家の有った広島市で約一年間闘病生活を送る。1937年に京都帝国大学を卒業。1941年に聖路加国際病院の内科医となり、内科医長、院長を歴任する。2001年12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げ、日本最高齢のミリオンセラー作家となった。高齢者の希望の星的存在となっている。2005年、文化勲章を授与される。2007年現在は同病院名誉院長であり、数多くの著書でも知られている。また、日本ユニセフ協会の大使に任命される。父親が戦中院長を務めた広島女学院で2008年4月から客員教授も務める。日野原が執筆に携わった絵本「葉っぱのフレディーいのちの旅ー」は後にミュージカル作品となっている。「98歳」!を超えてなお、スケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送る。わずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたという(Be2008年1月5日)。マスコミのインタビューで病院ではエレベーターを使わないと答えてしまったので、どんなに疲れていても、公衆の面前では、エレベーターを使えなくなってしまった。2010年世界宣教東京大会顧問。2010年10月4日、徹子の部屋(テレビ朝日)にゲスト出演。』


1914年 - エディ・タウンゼント、ボクシングトレーナー(+ 1988年)

『エディ・タウンゼント(Eddie Townsend、1914年10月4日 - 1988年2月1日)は、アメリカ合衆国のボクシングトレーナー。ハワイ州ホノルル出身。本名は、エドワード・タウンゼント。多くの世界チャンピオンを育て上げ「名トレーナー」「名伯楽」として尊敬された。【来歴】:弁護士であるアイルランド系アメリカ人の父と山口県出身の日本人の母の子としてハワイで生まれる。母は自身が3歳の時に病死した。11歳からボクシングを始め12勝無敗のハードパンチャーとして活躍、ハワイのアマチュア・フェザー級チャンピオンになったが、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の前日に初めて敗北を喫した。日本人の血を引いていることもあり、それまでもてはやしていた仲間達は次々と去り孤独の身となったエディは、ボクサーに見切りをつけトレーナーとして次の世代を担う人材育成を志すようになった。たまたまハワイ巡業に来ていた力道山に招請されて1962年に来日。当時の力道山は、自ら創設した「リキジム」からボクシングの世界チャンピオンを誕生させようと計画しており、そのトレーナーとしての手腕を期待されての来日だった。しかし、力道山が暴漢に刺されて1963年12月15日に死去したためにこの計画は頓挫し、エディは再び孤独の身となってしまう。そんなエディの処へ、ハワイ時代から旧知の仲だった日系三世のポール・タケシ・藤井(リングネーム:藤猛)が偶然訪れ、トレーナーとして1967年に世界チャンピオンへと導いたことで注目される存在となる。以降、六人の世界チャンピオンと赤井英和・カシアス内藤らの名ボクサーを育て上げた実績のみならず、人間性や指導方法も高く評価され「名トレーナー」として日本のボクシング関係者・ボクシングファンから尊敬される様になった。高齢となったエディが、一から育て上げ最後の弟子と言われた井岡弘樹は、とりわけ愛情を注いだボクサーの一人である。井岡のことを「ボーイ」(Boy)と呼び、ジムの二階で寝食を共にして実の息子のように可愛がった。ただし、この二人三脚の生活はかつて何人かの弟子に裏切られたエディが思春期の少年に半ば禁欲生活を強制するためのものだった。1987年10月18日に行われたWBC世界ミニマム級王座決定戦で、井岡を世界チャンピオンへと導いたが、この頃は既にエディの体は「直腸がん」の病魔に蝕まれており車椅子で生活しながら指導するようになる。1988年1月31日の初防衛戦では、どうしても井岡の試合を見守りたいと切望し、入院中の病院からベッドに横わった状態で試合会場入りしたが、試合開始直前に意識不明の危篤状態に陥り田中外科(現・渡辺外科病院)へと引き返した。井岡が挑戦者を12回TKOで退けた知らせを病院で聞くと、右手でVサインをかかげた後に静かに息を引き取った。その劇的な人生は「EDDIE」の名で演劇化され、各地の学校で上演されている。』


1918年 - 福井謙一、化学者(+ 1998年)

『福井 謙一(ふくい けんいち、1918年10月4日 - 1998年1月9日)は、日本の化学者。京都大学・京都工芸繊維大学名誉教授。日本学士院会員、ローマ教皇庁科学アカデミー会員、全米科学アカデミー外国人客員会員。工学博士。奈良県奈良市出身。【業績】:1952年、フロンティア軌道理論(frontier orbital theory)を発表。これはフロンティア軌道と呼ばれる軌道の密度や位相によって分子の反応性が支配されていることをはじめて明らかにしたもので、世界の化学界に衝撃を与えた。この業績により、1981年にノーベル化学賞を受賞。また固有反応座標(Intrinsic Reaction Coordinate)の概念を提唱した。【門下生】:門下に米澤貞次郎(京大名誉教授)、永田親義(元国立がんセンター生物物理部長)、諸熊奎治(分子研名誉教授、エモリー大教授)、藤本博(京大名誉教授)、平尾公彦(東大名誉教授)、加藤重樹(京大)など多くの著名な化学者、また産業界では伊藤俊明(元三菱重工業株式会社常務取締役、現三菱重工業株式会社特別顧問)がいる。』


1922年 - 重光武雄、実業家

『重光 武雄(しげみつ たけお、1922年10月4日 -)は、実業家。ロッテグループ会長、日本のプロ野球チーム千葉ロッテマリーンズと大韓民国のプロ野球チームロッテ・ジャイアンツのオーナー。【来歴・人物】:韓国慶尚南道蔚山郡(現・蔚山広域市)出身の在日韓国人一世。本名は辛格浩(シン・キョクホ、またはシン・キョッコ)。親族関係としては次の通り。長男:重光宏之(辛東主、シン・ドンジュ、ロッテグループ副会長)。次男:重光昭夫(辛東彬、シン・ドンビン、同副会長兼千葉ロッテ球団オーナー代行)。甥:辛東仁(シン・ドンイン、韓国ロッテジャイアンツオーナー代行)。また、韓国の食品メーカー農心の創業者である辛春浩(シン・チュンホ)は実弟である。2009年7月1日、創業以来務めてきたロッテグループ社長を退き、会長に就任した。』。。。ちなみにおいら、子供の頃からロッテガム愛好家ですが、日本ハム応援しながらロッテのガム噛んでましたよっと。。。だから、5位になったのかぁノ(≧p≦#)ヽいや、単純に総合力で劣っていただけっ(汗)日本ハム来期はたのんますよ(;≧人≦;)


1922年 - 武末悉昌、元プロ野球選手(+ 1998年)

『武末 悉昌(たけすえ しっしょう、1922年10月4日 - 1998年6月2日)は福岡県出身のプロ野球選手。右投右打の投手。【来歴・人物】:旧制 筑紫中学(現・福岡県立筑紫丘高等学校)を卒業後、野球を続けるために旧満州に渡り、大連高等商業学校を経て、満協中央銀行に入る。その後、帰国し、福岡銀行、杵島炭坑、西日本鉄道の野球部で活躍するが時あたかも太平洋戦争。1944年に召集令状を受け取り応召する。軍隊生活の間に投手の命というべき肩を痛めてしまう。1945年に終戦。復員後、肩痛を庇うためにアンダースローに転向。これが運命を決定的に変える。1949年、黄金時代を迎えつつあった山本(鶴岡)一人監督率いる南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団。プロ入りをめぐっては、南海と大阪タイガース(阪神)とが争った。後年の武末の回想によると、タイガースに入団することを決意して来阪し、阪神の球団事務所を訪れたが、女性の事務員以外は不在で話が要領を得なかったため、南海の球団事務所に赴いて契約するに至ったという。この入団時の経緯は、江藤晴康の二重契約問題につながることとなった(詳細は江藤の項目を参照)。1年目に21勝17敗の好成績で最多奪三振を獲得。アンダースローの元祖と呼ばれる[2]。この年の日米野球においてサンフランシスコ・シールズ相手に10月29日の第6戦(ステート・サイド・パーク)で好投、「スパイクの横からボールが来た」「マウンドの土の中からボールが浮き上がってきた」と震撼させた。翌1950年のリーグ分裂・新規球団多数参入に際して西鉄クリッパース(現・埼玉西武ライオンズ)に移籍。チーム勝ち頭となる12勝をあげる。1951年、セントラル・リーグ加盟の西日本パイレーツと合併し、新たに西鉄ライオンズが誕生。監督に名将・三原脩が就任する。前年とこの年の活躍から第1回オールスターゲームに出場を果たした。しかし、1952年から二桁勝利することもなく低迷。1954年、永田雅一主導で誕生した新規球団・高橋ユニオンズに加入。このとき、高橋球団のために既存球団は選手を提供したが、最盛期を過ぎた選手ばかりであった。このような弱小球団において勝ちが先行する投手はほとんどおらず、武末も28試合に登板し3勝4敗と負け越した。チーム名が高橋ユニオンズからトンボユニオンズにかわった1955年に引退を表明する。その後、RKB毎日放送の野球解説者として活動。1962年に選手兼任監督になった中西太の招きで古巣・西鉄の投手コーチになり、翌1963年の優勝に貢献する。「1969年、黒い霧事件」の発覚で先発投手陣のほとんどが永久追放処分となり、西鉄は急速にチーム状況が悪化。同年のシーズンをもって中西監督が辞任・引退し、稲尾和久監督が就任。それに伴い1970年からは二軍監督を務める。コマ不足のチームにあっては二軍で新人を長期育成することもままならず、1971年に退団した。』


1924年 - チャールトン・ヘストン、俳優(+ 2008年)

『チャールトン・ヘストン(Charlton Heston, 1923年10月4日 - 2008年4月5日)はアメリカ合衆国・イリノイ州エヴァンストン(Evanston)出身の俳優、社会運動家。身長188cm。妻は女優のリディア・クラーク、長男は映画監督のフレイザー・ヘストン(Fraser Heston)。趣味は狩猟と釣りである。【政治運動】:<公民権運動>:保守派層の代表として見られるが、アメリカ国内において法の上での人種差別が認められており、南部を中心に人種差別が激しかった1950年代から1960年代には、公民権運動の旗振り役の1人として活動し、マーティン・ルーサー・キング牧師と共にワシントン大行進に参加した。その後、バリー・ゴールドウォーターへの共感から保守主義に傾倒していくものの、一貫して人種差別に対しては反対の立場を取り、公民権法の実現と人種差別の解消に情熱を注いだ。なお、ジェシー・ヘルムズやトム・ディレイなどの大物政治家とも親交を持った。<全米ライフル協会>:銃の所有者が多いイリノイ州南部の出身ということもある上、「武装する権利擁護」の観点から全米ライフル協会(NRA)の一員であり、1997年に同会の評議員に当選し、翌1998年には同会の会長に就任した。同会の会長は本来2期(1期1年)までだったが、規約が改正され2003年まで5期つとめ、2000年アメリカ合衆国大統領選挙におけるジョージ・ブッシュ当選、2002年における共和党の中間選挙勝利に貢献し、減少を続けていた会員数も500万人近くにまで増大させた。そのため一時は大きな争点となっていた銃規制論議は、2008年アメリカ合衆国大統領選挙においてはほとんど聞かれず。本来は規制推進論者であるバラック・オバマやヒラリー・クリントンは争点化させていない。2002年にドキュメンタリー映画 『ボウリング・フォー・コロンバイン』 の監督で、全米ライフル協会の会員でもあるマイケル・ムーアからインタビューを受け、コロンバイン高校銃乱射事件直後のコロラド州デンバーでの全米ライフル協会会議について質問された。自身が全米ライフル協会の会員であることを述べてインタビューを始めたムーアに対し、ヘストンは上記会議の開催を批判されていることに気づくと立ち上がって、逃げるように退座した。2002年8月に自分がアルツハイマー病であることを公表し、全米ライフル協会会長を辞任した。【来日時のテレビ出演】:テレビ朝日の長寿番組「徹子の部屋」に出演している。』


1925年 - 山口鶴男、政治家

『山口 鶴男(やまぐち つるお、1925年(大正14年)10月4日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。群馬県吾妻郡草津町出身。日本社会党書記長、村山内閣総務庁長官などの要職を歴任。『慣例がなければ作ればいい』と久保亘書記長と共に自社さ連立政権の誕生に貢献した。また上州戦争(自由民主党の福田・中曾根・小渕の三つ巴)で有名な群馬3区から出馬し11回当選した。通称「ヤマツル」。』


【PS.治療代がお安く人も良心的な歯医者がつぶれて残念に思っていたら、そういえば時をあわせるようにして何故か今時新しい歯医者が数件立ってる、ここ地元は、もしかして歯を悪くする食材を仕入先がコントロールして何食わぬ顔で販売してて、その後に当然の如くやってくる多く患者にフッフッフッな展開なのではないだろうか!来ることをわかってるような制圧感、と思うほどです。というか!それは箱にしまっておいて、歯医者にはいきたくないですよね!(汗)何あのキュイーーーンって音!アラレちゃんが来るの?何あのフワァっとした質感!どんなにお美しくて優しく対応して、ちょっと胸があったとしてもぉー、あの音だけは耐えられないよ。正直、震えがくるよぉ~(汗)それに一回の請求金額が肉体労働だと日給に値する額だから困る。ヘルプなおいらにどうしろっていうんだぁーノ(≧ロ≦)ヽてか全てが良心的であるべきだ。松田聖子くらいの美しい歯を治療時間数分でしかも安価でご提供するのが歯科医師としての誇りではないのか。歯痛と頭痛のコラボレーションはきつい!そんな患者に愛の手は。。。あるはずもなく、現実が立ちはだかる。だが高額にして超痛い治療を思ったら、是が非でも。。。断る。。。何か痛みが軽減する方法はプ、プラークコントロールか(汗)てか他の理由じゃないよね?調べると似た感じのアレがアレしてアーなんだよね(汗)。。。それもおいといてと、10月4日の著名人たちの歴史もすさまじく刺激を受ける内容ですね♪ああ!さぶちゃんも10月4日なんだぁ♪名前見ただけで「祭」を感じますよね;^^)ノ目薬差すこと8回。今日は全プロフ読破に近づけたんじゃないだろうか♪よっしゃ!寝よ!(汗)ではまたぁー。。。突然変異だと思ったらカルガモだったのかぁ。。。ムニャムニャ♪Zzz。。。】


1927年 - エバ・パブリック、フィギュアスケート選手(+ 1983年)

1928年 - 三木申三、政治家

1935年 - 近藤高子、声優

1936年 - 北島三郎、歌手

1941年 - アン・ライス、小説家

1943年 - 河野義博、元スピードスケート選手

1944年 - 黒田アキ、芸術家

1944年 - トニー・ラルーサ、メジャーリーグ監督

1948年 - 上杉純雄、みちのく銀行会長、ユーシーカード元社長

1959年 - 辻仁成、小説家・ミュージシャン

1959年- クリス・ロウ、ミュージシャン(ペット・ショップ・ボーイズ)

1960年 - 松山尚子、女優

1961年 - 浅野妙子、脚本家

1961年 - 鵜飼菜穂子、競艇選手

1963年 - 高橋和希、漫画家

1963年 - いしかわこうじ、絵本作家、イラストレーター

1964年 - 柿崎澄子、女優

1964年 - 金谷ヒデユキ、元お笑い芸人

1965年 - 根谷美智子、声優

1967年 - 小山剛志、俳優、声優

1968年 - 野村誠、作曲家

1971年 - 仁志敏久、プロ野球選手

1971年 - 桶田敬太郎、元フォークダンスDE成子坂

1971年 - 千聖、ミュージシャン(PENICILLIN)

1971年 - 藤田俊哉、サッカー選手

1971年 - カレン・トン、香港の歌手・女優

1972年 - アダム・リグス、プロ野球選手

1972年 - 高橋英樹、元プロ野球選手

1973年 - 梅沢由香里、女流棋士

1974年 - 笹島かほる、声優

1974年 - 高野直子、元朝日放送アナウンサー

1976年 - 清水範久、サッカー選手

1976年 - 森笠繁、プロ野球選手

1976年 - さくらえみ、プロレスラー

1977年 - 藤本敦士、プロ野球選手

1977年 - 前田忠節、プロ野球選手

1978年 - ペース・ウー、台湾のタレント

1978年 - 吉崎勝、プロ野球選手

1978年 - 高倉啓司、野球選手

1978年 - 平井英一、野球選手

1979年 - 香川みどり、歌手

1980年 - 高城元気、声優

1980年 - 原万紀子、タレント

1980年 - トマーシュ・ロシツキー、サッカー選手

1981年 - 平中克幸、レーシングドライバー

1982年 - mie、ファッションモデル

1982年 - 那須野巧、プロ野球選手

1983年 - 上田竜也、KAT-TUN

1983年 - 工藤里紗、グラビアアイドル

1983年 - 前田愛、女優

1984年 - リェーナ、T.A.T.u.メンバー

1984年 - 松原大典、声優

1984年 - 八田亜矢子、タレント

1985年 - 張丹、フィギュアスケート選手

1986年 - エリエル・サンチェス、野球選手

1987年 - 佐々木喜英、俳優

1987年 - 村川絵梨、女優・歌手

1987年 - 榎園実穂、女優

1988年 - 森絵梨佳、モデル、グラビアアイドル

1989年 - キミー・マイズナー、フィギュアスケート選手

1990年 - 土屋健二、プロ野球選手

1990年 - キャメロン・ヒムズ、フィギュアスケート選手

1994年 - 土田真里恵、女優

生年不明 - 木村真一郎、アニメーション監督

生年不明 - 近木裕哉‎、声優

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Posted by 渡瀬側治 at 2010/10/04 23:36 | Top▲
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