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10月2日の誕生花は「あんず(Apricot)」と花ことばは「乙女のはにかみ(Maiden's shyness)」。花占いと今日が誕生日の著名人は?


「あんず(Apricot)」は バラ科サクラ属の落葉小高木で、ヒマラヤ西部からフェルガナ盆地にかけての地域が原産である。


「唐桃」とも呼ばれ、中国から渡来しました。長野県では、あんず栽培が盛んですが、そのきっかけは300年以上も昔になります。伊予宇和島藩のお姫さまがこの地にお嫁入りする時、故郷の春を忘れないためにあんずを持ち込み、城内に植えたのがはじまりとされています。


ぜんそく持ちに、冬は苦しい季節。せきが出そうになったら、杏の干し種を噛むことで、発作がおさまるといわれています。この干し種は杏仁と呼ばれる重要な生薬で、漢方では、鎮咳去痰薬(せき・たんの薬)とされています。


誕生花は「あんず(Apricot)」。

花ことばは「乙女のはにかみ(Maiden's shyness)」。

【10月2日の花うらないは?】


恋が苦手で、軽率なところがあり、無分別などのことばが大嫌いな人。人間関係は信頼感こそ基本としている。自分自身そう努力しているのです。しかし、「恋は盲目」。何もかも見えなくなってしまうものです。あなたの頭の中の基本をはずし、正直になることで、素晴らしい愛が生まれることでしょう♪


【<366日の著名人>:☆10月2日生まれの著名人は?】


1452年 - リチャード3世、イギリス国王(+ 1485年)

『リチャード3世(Richard III, 1452年10月2日 - 1485年8月22日)、ヨーク朝イングランド王(在位:1483年 - 1485年)。エドワード3世の曾孫ヨーク公リチャードの八男。即位前はグロスター公。薔薇戦争(※ 薔薇戦争(ばらせんそう、英: Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱。1455年5月にヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年にテューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われた権力闘争。)の最後を飾るイングランド王であり、戦死した最後のイングランド王である。1484年1月、王直属の機関として紋章院を創設したことでも知られる。リチャードはシェイクスピアによって、ヨーク朝の後継王朝であるテューダー朝の敵役として性格・容姿ともに稀代の奸物として描かれ、その人物像が後世に広く伝わった。』


1798年 - カルロ・アルベルト、サルデーニャ国王(+ 1849年)

『カルロ・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイア(Carlo Alberto Amedeo di Savoia, 1798年10月2日 - 1849年7月28日)は、サルデーニャ王国の第7代国王(在位:1831年 - 1849年)。元はカリニャーノ公(在位:1800年 - 1831年)。【略歴<王位継承>】:サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟トンマーゾ・フランチェスコに始まるサヴォイア家の分家サヴォイア=カリニャーノ家の7代目として、父カルロ・エマヌエーレと母マリア・クリスティーナの間に生まれる。フランス宮廷で王妃マリー・アントワネットに女官長として最後まで仕えたランバル公妃マリー・ルイーズは大叔母に当たる。サヴォイア家の一族とはいえ6世代前に分家した遠戚であり(同族内の婚姻で初代サルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世の王女の血も引いている)、出生時には王位継承者とはほとんど考えられていなかった。しかしヴィットーリオ・アメデーオ3世の息子たちにいずれも男子が得られず、カルロ・エマヌエーレ4世からヴィットーリオ・エマヌエーレ1世、カルロ・フェリーチェと兄弟で王位が継承された末に男子が絶えた。そのため、サリカ法を採るサヴォイア家の継承法によって、カリニャーノ公カルロ・アルベルトがサルデーニャ王となった。』


1832年 - エドワード・バーネット・タイラー、人類学者 (+ 1917年)

『エドワード・バーネット・タイラー(Sir Edward Burnett Tylor、1832年10月2日 - 1917年1月2日)はイギリスの人類学者。「文化人類学の父」と呼ばれる。宗教の起源に関してアニミズムを提唱した。【概要】:タイラーは文化進化研究の先駆者の一人と考えられている。"Primitve culture"と"Anthropology"において彼は、チャールズ・ダーウィンの進化論をもとに、人類学を科学的な研究として位置づける試みを行った。彼は社会や宗教の発展に機能的な側面があることを信じていた。彼とその子弟による研究は、現在でも19世紀における社会人類学の主要な成果であると考えられている。彼は人類の歴史研究や先史時代の研究によって、イギリスの社会の形成基盤が明らかになると信じていた。彼はアニミズムを「すべての物や自然現象に、霊魂や精神が宿るという思考」と定義した[3]。 彼にとってはアニミズムは、宗教の初期段階なのである。』


1847年 - パウル・フォン・ヒンデンブルク、ドイツ大統領(+ 1934年)

『パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg , 1847年10月2日 - 1934年8月2日)はドイツの軍人、政治家。ヴァイマル共和国第2代大統領(在任:1925年‐1934年)。第一次世界大戦のタンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍を指揮してロシア軍に大勝利を収め、ドイツの国民的英雄となった。大戦後期には参謀本部総長を務めた。戦後、共和制となったドイツにおいて大統領に当選。アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権樹立への道を開いた。【語録<ヒンデンブルク本人の発言>】:「ヤング案に対する賛否両論を聞き、これらを考慮の上、慎重に同案を検討した結果、心重くも、しかしながら断固としてこれに署名した。(中略)ヤング案はドーズ案と比較すれば、一定の改善と救済が見られ、政治的にも経済的にもドイツが解放・再建される難路の第一歩と言える。(中略)もしこれを拒絶すれば、その結果ドイツの経済・財政にとって計り知れない影響を与え、国家を重大な危機に導くことは必至であろう。(中略)余はこの決断を為すにあたり、個人の思惑は断じて廃し、また責任から逃れるために国民投票に訴えたり、辞職をするが如きことはもとより念頭にはなかったのである。」(1930年3月13日、ヤング案署名にあたって発表したドイツ国民への声明)。「わしはカイザー(ドイツ皇帝)のために良かれと思って図ったのだ。一旦廃された帝位が再び国民によって復活された例は他にもある。カイザーがオランダに亡命されるとき、わしの考えたのはそれだった。だから今でも退位も亡命も不可避の出来事だったと信じている。あの時は戦線は崩壊していたし軍隊は反乱していた。わしはプロイセン軍人としてカイザーの安全を護る以外にとるべき道はなかったのだ。」(1931年11月11日、ハインリヒ・ブリューニング首相に1918年11月9日のことを語った言葉)。「あの男をわしの下で首相にしろというのか?奴は郵便局長あたりがうってつけだ。わしの肖像画のついた切手でも舐めるがよい!」(ヒトラーとの会談後、オットー・マイスナーに漏らしたヒトラーへの感想)。「ルーデンドルフよ。お前の部下は何と見事な行進をするではないか。それに何というたくさんの捕虜だろう。」(ヒトラーの首相就任を祝う突撃隊のたいまつ行進を見たヒンデンブルクがつぶやいた言葉)。「刻々と行われつつあるドイツ国民の復興と強化につれて、全てヨーロッパ問題に関する進歩的で寛大な解決はドイツの名誉と威厳を基礎として求められ、獲得されたのである。余は、余の生涯の夕暮れに、この国民力の甦生の時を見ることを許し給うた神に感謝する。また余は、利己心を捨てて余に協力し、ドイツ再建に尽したあらゆる人々に感謝する。余の首相アドルフ・ヒトラーと、彼の運動はドイツ国民をして、その職業、階級を超越せしめて国民の一致に導いた。これは歴史的な重要性を持つ決定的な一歩である。多くの為すべき事が残されているのを余は知っている。余は、全ドイツを抱擁する和解の行為が国家的高揚と国民的協力との先駆とならんことを衷心より願う。余は、余が1919年に憧れ、1933年に着々と実を結びつつある物が、ついに熟して我が国民の歴史的使命を完全に果たすに至る事を希望しつつ、我がドイツ国民と別れよう。祖国の将来に対して、この確信を抱きつつ、余は安らかに眼を閉じるであろう。  1934年5月11日、ベルリンにて。フォン・ヒンデンブルク」(ナチ党政権により公開された遺書)。』


1851年 - フェルディナン・フォッシュ、軍人(+ 1929年)

『フェルディナン・フォッシュ(Ferdinand Foch, 1851年10月2日 - 1929年3月20日)はフランスの陸軍軍人。スペインとの国境に近い南西部のタルブに生まれ、志願兵として普仏戦争に従軍している。1895年からフォンテーヌブロー砲兵学校で戦略戦術論を教授し、「戦争の原則」、「戦時統帥論」などを著した。第一次世界大戦開戦時には第20軍団の軍団長の地位にあった。後マルヌ会戦の直前に新たに編成された第9軍を指揮、その後も幾つかの戦闘に参加している。1918年3月に連合国軍総司令官に就任、同年8月には元帥の称号を受けた。連合国を勝利に導いた軍人として賞賛を受け、1919年にはイギリス陸軍元帥、1923年にはポーランド元帥にも叙せられている。戦後の1925年から1926年にはドイツ非武装監視委員会会長を務めた。1929年3月20日に没し、オテル・デ・ザンヴァリッドに葬られた。【語録】:「我が軍の左翼は押されている。中央は崩れかけている。撤退は不可能。状況は最高、これより攻撃(反撃)する」-第9軍司令官時、ドイツ軍に対する防戦を指揮していた際の言葉。 』


1852年 - ウィリアム・ラムゼー、化学者 (+ 1916年)

『ウィリアム・ラムゼー(William Ramsay, 1852年10月2日 – 1916年7月23日)はイギリスの化学者である。1904年に空気中の希ガスの発見によりノーベル化学賞を受賞した。1892年、レイリー卿は空気から酸素を取り除いて得た窒素の密度は化合物を分解して得られる窒素のそれよりも大きい、という事実を「ネイチャー」誌に報告した。これは空気中には酸素、窒素以外のものが含まれているという事を暗示する。一方、当時ロンドン大学でアンモニアの合成を研究していたラムゼーは、高温でマグネシウムと化合させて窒化マグネシウムとして窒素を取り除くことにより、空気中の不活性な気体アルゴンを取り出すことに成功した。1895年、レイリーと共にアルゴンの発見を報告した。さらに1895年、ウラン鉱に含まれる窒素の中にヘリウムを発見した。さらに未発見の希ガスを発見するために、空気を液化することなどによって、1898年、クリプトン、ネオン、キセノンを発見した。1903年、ソディとウラン鉱中のヘリウムがウランのアルファ崩壊によるものであることを示した。アルゴンの発見をきっかけとした諸研究により、1904年、ラムゼーはノーベル化学賞を、レイリーはノーベル物理学賞を同時受賞した。』


1869年 - マハトマ・ガンディー、インド独立運動家(+ 1948年)

『モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi, デーヴァナーガリー: मोहनदास करमचन्द गांधी, グジャラート語: મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી, / 1869年10月2日 - 1948年1月30日)は、インドのグジャラート出身、マハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー:Mahatma Gandhi)として知られるインド独立の父、弁護士、宗教家、政治指導者。「マハートマー(महात्मा, Mahatma)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称である(自治連盟の創設者、アニー・ベザントが最初に言い出したとの説もある)。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(बापू:「父親」の意味)とも呼ばれている。日本では「マハトマ・ガンジー」というカタカナ表記が慣例的に使用されている。1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが、受賞には至っていない。ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガーンディー・ジャヤンティー」(गांधी जयंती:「ガンディー記念日」)という国民の休日でとなっており、2007年6月の国連総会では、この日を国際非暴力デー(英語)という国際デーとすることが決議された。【ガンディーと日本】:第二次世界大戦中、ガンディーは1942年7月26日に「すべての日本人に」と題する以下の公開文書を発表した。私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。 あなたがたの友 ガンディーより。」』


1871年 - コーデル・ハル、アメリカ合衆国国務長官(+ 1955年)

『コーデル・ハル(Cordell Hull、1871年10月2日 - 1955年7月23日)は、アメリカ合衆国の政治家。フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトの下で1933年から1944年まで国務長官を務めた。1945年のノーベル平和賞の受賞者であり、「国際連合の父」と称される。【ハルはテネシー州ピケット郡で生まれた。彼は1889年から1890年までオハイオ州レバノンの国立師範大学で学び、1890年にテネシー民主党大会に代表を務めた。19歳のときにハルはクレイ郡民主党の議長に選ばれた。1891年にテネシー州レバノンのカンバーランド大学法律学校を卒業し法曹界入りする。彼の政治経歴は1893年のテネシー州議会で始まった。彼は州議員を1897年まで務めた。米西戦争中にハルはテネシー州義勇歩兵師団第4連隊の大尉としてキューバで戦った。1903年から1907年までハルはテネシー州第5巡回裁判区の裁判官を務めた。その後、彼は下院議員に当選し、11期(1907年 - 1921年および1923年 - 1931年)22年間同職を務めた(民主党全国委員会議長を務めた二年間中断された)。下院議員職中、彼は低率関税の改訂に努め、1913年には最初の連邦所得税法案(1916年の同法案修正も)、1916年には連邦および州相続税法を成立させた。彼は1930年に上院議員に選出され、1933年にはフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領より国務長官に任命された。ハルの政策は貿易の促進と関税低下を支援した。また、1930年代の東アジア開発に対する彼の警告は、アメリカ政府に日本との戦争準備を支援した。国務長官として彼は、1940年から1941年の大日本帝国との平和的外交解決の失敗全般に関係していた。太平洋戦争開戦前夜の1941年11月にはハル・ノートを提示し、日本側の外交交渉断念につながった。ハルの問題解決の努力に対する評価は、強力で必要なものであったと賛美するものから過度に積極的で単に開戦を刺激したに過ぎないと嘲笑するものまで、歴史家によって大きく変化する。1943年のモスクワ会議ではアメリカ全権代表を務めた。ハルはドイツのロケット科学者ヴェルナー・フォン・ブラウンと彼の研究チームをペーパークリップ計画によってアメリカに移送し、アメリカの戦後のロケット計画を組織するのに貢献した。同計画は後のNASAの宇宙開発計画の基礎となった。ハルは国際連合の発案者および熱心な支持者であったことで有名である。彼は「国連憲章」の執筆を国務省に強く求めた主要人物であり、それは1943年の中頃までに実行された。ハルは1944年11月に健康問題で国務長官を辞任した。ルーズヴェルトはハルの辞任に際して「(彼は)世界で平和のためにこの大きな計画を達成するために最も尽力した一人である。」と語った。ハルは1945年にノーベル平和賞を受賞した。共和党は以前国際連盟への加入に反対したが、ハルの超党派的献身がアメリカ合衆国の国際連合加入に際して共和党が協力した理由だとされる。彼はしばしば「国連の父」と呼ばれる。ハルは国務長官の職を11年9ヶ月務めた。彼は最も長期間国務長官を務めた人物である。ハルは1955年7月23日にメリーランド州ベセスダの海軍病院で、心筋梗塞ならびに脳梗塞により死去した。彼にちなんで命名されたものがいくつかある。最も有名なものは陸軍工兵隊によってテネシー州カルタゴの近くのカンバーランド川に建設されたコーデル・ハル・ダムである。】』


1879年 - 柳川平助、陸軍軍人(+ 1945年)

『柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年10月2日 - 1945年1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。司法大臣、国務大臣。【第二次世界大戦時】:1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、柳川が司令官に任命されて現役に復帰、杭州湾上陸作戦を指揮。上海では中国軍が退却寸前での作戦であったため、十分な戦果を挙げられなかったが、続いての南京戦で戦果を挙げる。1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。1938年12月に設立された興亜院の初代総務長官。1940年に第2次近衛内閣で、司法大臣を務め、第3次近衛内閣では国務大臣に転じた。1945年病死。【柳川文書の発見】:「※ 二・二六事件」から70年を経過した2005年2月、長崎県大村市で、柳川平助が書いた自筆の書簡集が発見された。眼科医で、東彼杵郡医師会会長を務めたこともある実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)に、1927年から1944年の間に出されたもの。二・二六事件前において、政府や軍などに対して抱いていた不満、不信感がつづられており、貴重な資料となっている。(※ 二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。)』


1886年 - 小沢治三郎、海軍軍人(+ 1966年)

『小沢 治三郎(おざわ じさぶろう、明治19年(1886年)10月2日 - 昭和41年(1966年)11月9日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍中将。最後の連合艦隊司令長官。宮崎県児湯郡出身。【生涯】:小沢治三郎は、明治19年(1886年)宮崎県児湯郡高鍋町で元高鍋藩士の父小沢寅太郎と母ヤツの次男として誕生した。暴力沙汰(言いがかりをつけてきたチンピラを柔道技で橋の下に投げ飛ばした)で宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)を退学処分となる。失意の所、陸軍軍人だった兄宇一郎の上官牛島貞雄大尉から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに一念発起して上京、陸士受験の予備校として名高かった成城学校へ転入した。なお、この手紙は終生大切に保管し、またその言葉は小沢の座右の銘となった。第七高等学校工科に進学するも、同年11月に海軍兵学校の合格に伴い中退。明治42年(1909年)11月、海軍兵学校を卒業。同期だった井上成美によると、成績は入学当時は183人中150番位だったが、卒業時には40番位で、たいへんな前進ぶりであったという(実際の卒業席次は179人中45番)。少尉候補生となると二等巡洋艦「宗谷」乗組となる。この時の艦長は後に終戦時の首相となる鈴木貫太郎大佐、候補生の指導は山本五十六大尉と古賀峯一中尉であった。訓練航海の途中皇居にて明治天皇に拝謁。明治43年(1910年)12月15日、正式に少尉に任官。(以下省略(汗))【評価】:当時一艦隊に1隻配備が常識だった空母の運用法に対して、空母のみの集中使用法を提案したことから日本海軍機動部隊の生みの親とされ、卓越した戦術能力と統率力を兼備した名将と評価される(特に米海軍での評価が高い)。一方で理論家ではあるが統率が追いつかず理屈倒れの観があったという評もある。「飛行機を弾丸と考える」と発言していることからも、その戦術思想は航空機の可能性を見通したものではなく、彼自身の専攻分野である水雷戦(魚雷による遠距離攻撃と肉薄攻撃)そのものであったことも指摘できる。しかし、苦労して練成した母艦用搭乗員・機材は半年先任の南雲忠一中将の部隊となり、またたびたび転用・消耗を余儀なくされ(い号作戦、ろ号作戦)、ようやく巡ってきた艦隊決戦の機会(マリアナ沖海戦)には、質・量ともに不十分な戦力をもって、圧倒的に優勢な敵に立ち向かわねばならなかった彼の不運は大いに考慮されて然るべきである。山本七平『「空気」の研究』(1977年)では、戦艦大和の海上特攻について戦後に小沢が述べた「全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う」との発言が引用されている。【人物像】:◆あだ名は「鬼瓦」。これは駆逐艦上で事故により顔面を負傷し、その後遺症で表情が変えられなかったことによる。◆陸軍大将の今村均とは戦後、お互いの家がさほど離れていないことから交友があった。◆手が震える程のアルコール依存症だったとの証言もある。◆第八戦隊司令官時代には司令官室に『改造』と『中央公論』を置き、戦後は貧しいながらも『朝日ジャーナル』を定期購読し、時代の流れを見ていた。◆柔道の猛者として有名。少年期は相当な乱暴者で、上記の武勇伝の他にも海軍兵学校に入学し、海軍軍人としての道を歩み始めてからは、空手家や、のちに柔道の名人となる三船久蔵(※ 三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年(明治16年)4月21日 - 1965年(昭和40年)1月27日)は、日本の柔道家。文化功労者。身長159cm、体重55kg。小柄な体型ながら「空気投げ」などの新技をあみ出し、1945年(昭和20年)最高位の十段を授けられ「名人」の称を受ける。「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから「柔道の神様」とあがめられた。)と喧嘩になり、橋から投げ飛ばしたりしたことなど、若いころの武勇伝は数多い。◆戦後、防衛庁を通して、小沢の提督としての武勇や活躍を聞いたアメリカの子供たちから数多くの手紙を受け取っており、これに対し小沢は「(自分は)英雄でもなんでもないが、自分の仕事を子供たちに評価してもらうのはうれしいことだよ」と体調が悪化し、執筆ができなくなるまで丁寧に返事をしていたという。また「わたしの一番の楽しみは若い人達の話を聞くことだ」とも語っている。』


【PS....今日は特に真実?の歴史と逸話が充実したプロフですね。考えれば考えるほど歴史の渦に飲み込まれる思いでしたぁ~。しかし1900年代まで到達できなかったとは(汗)体調云々はおいといても、ここから先の時代がどう変わっていったのかが知りたかった。そこが僕の中では「面白いな(色んな意味でっ)」と感じるところなんだけど#-p-)ノただ実は自分にとって今の状況を打開する言葉が見つかるかもしれないという期待が一番かな♪ホントォー。。。ノ(≧p≦;)ヽ全部読みたぁーい!ではまたぁーーー。。。ゴホゴホッ】


1890年 - グルーチョ・マルクス、喜劇俳優、マルクス兄弟の三男(+ 1977年)

1899年 - 松本重治、ジャーナリスト(+ 1989年)

1902年 - 湯浅禎夫、元プロ野球選手、監督(+ 1958年)

1902年 - 八原博通、陸軍軍人(+ 1981年)

1904年 - グレアム・グリーン、小説家 (+ 1991年)

1904年 - 大隅健一郎、商法学者 (+ 1998年)

1905年 - 円地文子、小説家(+ 1986年)

1907年 - アレクサンダー・トッド、生化学者(+ 1997年)

1908年 - 増田四郎、歴史学者(+ 1997年)

1910年 - 竹内好、中国文学者、文芸評論家(+ 1977年)

1910年 - 塚原俊郎、政治家(+ 1975年)

1911年 - ジャック・フィニイ、アメリカ合衆国の小説家(+ 1995年)

1912年 - フランク・マリナ、航空技師・画家(+ 1981年)

1913年 - 志村正順、アナウンサー(+ 2007年)

1917年 - 長野士郎、元岡山県知事(+ 2006年)

1917年 - 下元勉、俳優(+ 2000年)

1917年 - クリスチャン・ド・デューブ、生化学者

1921年 - 大島信雄、元プロ野球選手(+ 2005年)

1921年 - スコット・クロスフィールド、軍人、パイロット(+ 2006年)

1925年 - 海野和三郎、天文学者

1925年 - 近藤貞雄、元プロ野球選手(+ 2006年)

1925年 - 金石範、小説家

1926年 - 鈴木通夫、数学者(+ 1998年)

1932年 - 長谷川繁雄、元プロ野球選手(+ 1966年)

1932年 - 出目昌伸、映画監督

1932年 - モーリー・ウィルス、メジャーリーガー

1935年 - 小原乃梨子、声優

1935年 - オマール・シボリ、サッカー選手(+ 2005年)

1936年 - ディック・バーネット、バスケットボール選手

1940年 - 尾辻秀久、政治家

1942年 - 尾上菊五郎 (7代目)、歌舞伎俳優

1943年 - 青空好児、漫才師

1944年 - 小島一慶、アナウンサー

1945年 - 室伏重信、陸上競技選手(ハンマー投)

1945年 - ドン・マクリーン、シンガーソングライター

1946年 - 成田文男、元プロ野球選手

1946年 - ソンティ・ブンヤラットカリン、軍人

1948年 - 稲葉光雄、元プロ野球選手

1948年 - ダナ・キャラン、ファッションデザイナー

1949年 - リチャード・ヘル、ミュージシャン、俳優

1949年 - アニー・リーボヴィッツ、写真家

1950年 - マイク・ラザフォード、ミュージシャン(ジェネシス)

1951年 - スティング、ミュージシャン

1953年 - 岩崎和夫、アナウンサー

1953年 - 鳥井架南子、小説家

1954年 - プリティ長嶋、タレント

1954年 - 岡村隆則、元プロ野球選手

1956年 - ジェフ・ドイル、元プロ野球選手

1958年 - 和久井光司、総合音楽家

1959年 - レナ・ハデス、画家・作家

1961年 - 向井昭吾、ラグビー監督

1962年 - 真鍋吉明、ギタリスト(the pillows、NINE MILES)

1962年 - オレグ・マカロフ、フィギュアスケート選手

1964年 - いくえみ綾、漫画家

1965年 - 堀内一史、ミュージシャン(ユニコーン)

1967年 - フランク・フレデリクス、陸上競技選手

1968年 - 村田蓮爾、イラストレーター

1968年 - ヤナ・ノボトナ、テニス選手

1968年 - ダンナ小柳、パフォーマンス集団電撃ネットワークメンバー

1969年 - 徳光由禾、声優

1969年 - 山瀬まみ、タレント

1969年 - 高井一、元プロ野球選手

1969年 - アラン・ニューマン、元プロ野球選手

1970年 - エディ・グアダード、野球選手

1970年 - 萩野純一郎、情報工学者(+ 2007年)

1971年 - 桑原裕義、サッカー選手

1971年 - 原田武男、サッカー選手

1971年 - ティファニー、歌手

1971年 - ジェイムズ・ルート、ギタリスト

1972年 - トレイ・ムーア、元プロ野球選手

1972年 - 村上由利子、NHKアナウンサー

1973年 - プルーフ、MC

1973年 - 井手元健一朗、元プロ野球選手

1973年 - 鳩山来留夫(たけし軍団)、お笑い芸人

1974年 - 浅野実奈子、女優

1974年 - 大八木友之、元毎日放送アナウンサー

1975年 - 森田展義、お笑いタレント(吉本新喜劇)

1977年 - 西村麻子、毎日放送アナウンサー

1978年 - 新井田豊、プロボクサー

1978年 - 浜崎あゆみ、歌手

1980年 - miyake(mihimaru GT)、ミュージシャン

1980年 - タイヘイ、ミュージシャン(ヤドカリ)

1981年 - アンバー・リー・エッティンガー、モデル・女優

1981年 - 宮本大輔、プロ野球選手

1982年 - 住吉文子、漫画家

1983年 - 石原朋香、タレント

1983年 - 水野真裕美、TBSアナウンサー

1983年 - アレクセイ・ベル、野球選手

1985年 - 渡部龍一、プロ野球選手

1985年 - 白仁田寛和、プロ野球選手

1985年 - ICCHAN(BACK-ON)、ミュージシャン

1986年 - 坂田遼、プロ野球選手

1986年 - 武内幸太朗、ジャニーズJr.、M.A.D.のメンバー

1986年 - カミーラ・ベル、女優

1987年 - 高橋としみ、レースクイーン

1988年 - 愛衣、グラビアアイドル

1988年 - 明日花キララ、AV女優

1988年 - 上田剛史、プロ野球選手

1989年 - 落合真純、D.D.D

1989年 - シャノン姉妹、アダルトモデル

1993年 - 劉兆芝、フィギュアスケート選手

未公表 - 岡嶋妙、声優

未公表 - クリス松村、タレント、フィットネスインストラクター

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Posted by 渡瀬側治 at 2010/10/02 23:50 | Top▲
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