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9月26日の誕生花は「柿(Date Plum)で花ことばは「自然美(Natural beauty)」。花占いと今日誕生日の著名人は?


「柿(Date Plum)」はカキノキ科でヨーロッパ・アジアが原産国です。



学名の「Diospyros」は、ギリシャ語で「神の食物」という意味。



原始時代は、野生種を食べていたが、それはほとんど渋柿で、日本で甘い柿が生まれたのは鎌倉時代以降です。



「柿は歯の毒、服薬」のことわざどおり、水分が多く、冷たく歯を浮き立たせる事があります。でもビタミンCが豊富、血圧降下やしゃっくりに効くといわれています。

「豊年柿にけかち栗」とのことわざは、柿の収穫のよい年は、米も豊作。雨が多い年は、栗が一杯になるけれど、米は不作という意味です。





柿は、日本国内には、現在1000種類以上ありますが、その中の渋柿には「柿渋」と呼ばれる1%–2%程度の可溶性タンニン(カキタンニン)が含まれます。このカキタンニンが、最近の研究結果では、どんな抗生物質も効かない多剤耐性菌のノロウイルスを撃退する効果が確認され、抗生物質のように副作用も無く、まさに万能薬の一つとして注目を浴びています。





誕生花は「柿(Date Plum)」。

花ことばは「自然美(Natural beauty)」。

【9月26日の花うらないは?】



あなたの発想は、すべて大自然の壮大なるめぐりあわせから生まれています。会話上手で実行力抜群!有限実行のお手本のような人。愛する人との生活も、大いに語り合う事によって、楽しい生活をつくりあげていくことでしょう♪




【<-366日の著名人-> ☆9月26日生まれの著名人は?】

1791年 - テオドール・ジェリコー、画家(+ 1824年)
『テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault, 1791年9月26日-1824年1月26日)は19世紀前半に活動したフランスの画家。同時代に起きた生々しい事件を題材とした『メデューズ号の筏(いかだ)』が代表作である。彼の作品はドラクロワなどにも影響を与え、ロマン派絵画の先駆者と見なされるが、画業半ばの32歳で早世している。【メデューズ号の筏】:ジェリコーの代表作品。この作品はサロンに発表するわずか3年前に実際に起きた事件を題材にした絵画である。1816年、フランスの新植民地となったアフリカ西海岸のセネガルをめざしていたフリゲート艦メデューズ号がモロッコ沖で座礁するという事件が起こる。離礁することが出来なかったため、乗客は備え付けの救命ボートで避難しようとしたが、乗れる人数が限られており、乗客全員を乗せることは不可能であった。そのため、破損したメデューズ号の用材をロープでつなぎ合わせて臨時の筏を造り、救命ボートに乗りきれなかった149名を乗り移らせた。最初は救命ボートが筏を牽引していたが、漂流初日に悪天候に見舞われ、救命ボート自体の航行も危うくなると、ボートの乗組員が筏をつないでいたロープを切断してしまい、牽引船と保存食を失った筏はあてもなく荒海をさまようこととなった。筏は12日間漂流したあげく、他の船によって発見されたが、 149名のうち生存者はわずか15名にすぎなかった。当時のフランス政府はこの事件を当初ひた隠しにしたが、やがて人々の知るところとなり、12日間の漂流期間中、筏の上では殺人、食人を含む様々な非人間的行為が行われたことが明るみに出た。ジェリコーはこの事件に大きな衝撃を受け、絵画化を決心した。完成した絵画は12日間漂流した筏がようやく停泊中の戦艦(白い布を振る人物の右腕の下にかすかに描かれている)を遠くに見つけ助けを求めて手を振りつつも、戦艦が遠ざかりつつあることに気づき絶望する場面を選択して描き出したものである。この後戦艦は筏に気づき救援に向かったが、希望と落胆、生と死が隣り合わせの極限状況に置かれた人間のドラマを描こうとしたジェリコーは、実際に筏に乗っていた生存者の話を聞いただけでなく、病院へ行って瀕死の病人の肌をスケッチしたり、刑場で処刑された犯罪者の首をスケッチするなどして、リアリティを追求した。この作品は場面選択とそのあまりの凄惨な表現のためか政治的批判を暗喩していると思われ、当時のサロンで賛否両論を巻き起こした。しかし、それは芸術論ではなくもっぱら政治的立場からの議論であったと言われている。この作品はルーヴル美術館が買い取りに意欲を示したが、実際には作品の封印を意図した申し出であった。ルーヴル美術館は購入のあと、ジェリコーに買取料を支払わず、作品も展示することなく、倉庫の奥深くに隠した。この行為に失望したジェリコーは、翌1820年、作品をルーヴル美術館から取り返してイギリスに渡り、同地で展示を行った。この事件と政治的かかわりのないイギリスにおいては、作品はおおむね好評をもって迎えられた。ジェリコー自身の弁によると「この作品はワインボトルのラベルと大差ない作品だ」「単なるイーゼル画だ」と嘆いていたといわれるが、それはこの作品の評価、ひいては人災がフランスから認められなかったことに対する自嘲的発言である。【その他の代表作】:◇突撃する近衛猟騎兵士官(1812年)ルーヴル美術館。◇戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官(1814年)ルーヴル美術館。◇エプソムの競馬(1821年)ルーヴル美術館。』

1828年(文政11年8月18日)- 小林虎三郎、越後長岡藩大参事(+ 1877年)
『小林 虎三郎(こばやし とらさぶろう)は、日本の武士・越後国長岡藩士。大参事。「米百俵(※ 米百俵(こめひゃっぴょう)は、幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事。後に山本有三による戯曲で有名になった。この逸話は、現在の辛抱が将来の利益となることを象徴する物語としてしばしば引用される。)【内容】:戊辰戦争で敗れた長岡藩は7万4000石から2万4000石に減知され、実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなった。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきった。」の逸話で知られる。』

1830年(天保元年8月10日) - 大久保利通、明治維新の元勲(+ 1878年)
『大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。維新の十傑の1人でもある。【人物・逸話】:◆寡黙であり、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかったと言う。桐野利秋も、大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれすぐに引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らした山本権兵衛さえも、大久保の前ではほとんど意見できなかったという。◆大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返ったと千坂高雅が語っている。◆漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという(笑)◆青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用し、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。■座右の銘は「為政清明」、「堅忍不抜」。■尊敬する人物:徳川家康。』

1849年(ロシア暦1849年9月14日) - イワン・パブロフ、生理学者(+ 1936年)
『イワン・ペトローヴィチ・パブロフ(Иван Петрович Павлов、Ivan Petrovich Pavlov、1849年9月14日(グレゴリオ暦9月26日) - 1936年2月27日)は帝政ロシア・ソビエト連邦の生理学者。1890年に実験医学研究所を創設。1897年に『消化腺の働きに関する講義』を発表。1902年に唾液が口の外に出るよう手術した犬で唾液腺を研究中、飼育係の足音で犬が唾液を分泌している事を発見、そこから条件反射の実験を行った。行動主義心理学の古典的条件づけや行動療法に大きな影響を与えた。初期には消化腺の研究を行い、1904年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。晩年は睡眠や本能などを研究する傍ら、再教育を考えていたウラジミール・レーニンと親交を結び、条件反射の発見は「全世界の労働者階級にとって重大な意義をもつ」と賛辞が与えられた。【犬を使った実験】:一般的に「パブロフの犬」としてよく知られる実験である。 犬のほおに手術で管を通し、唾液の分泌量を測定した。 ベルを鳴らしてからエサを与える事を繰り返した結果、ベルを鳴らしただけで唾液を出すようになった。さらにベルを鳴らし続けると次第に反応は消えていくが、数日後同様の実験をしても犬は唾液を分泌する。前者を『消去』と言い、後者を『自発的回復』と言う。』

1877年 - アルフレッド・コルトー、ピアニスト(+ 1962年)
『アルフレッド・ドニ・コルトー(Alfred Denis Cortot, 1877年9月26日・スイス、ニヨン - 1962年6月15日・スイス、ローザンヌ)は、20世紀前半のフランスを代表する大ピアニスト、指揮者、教育者、著述家。【名演の数々】:◆ ショパン:24の前奏曲 - 複数種類あり、戦前のスタジオ録音のものも良いが、晩年のモナコでの公開録音は彼の演奏生活の頂点を示すものと捉えるファンもいる。◆シューマン:「子供の情景」、「交響的練習曲」、及び「クライスレリアーナ」において、作品世界を見事に表現した。SP時代のピアノ協奏曲の録音は、多くのピアニストに「デビューならシューマンの協奏曲で」という若手が後を絶たないほど影響を与えた。◆リスト:ピアノソナタ - リストの音源はシューマンやショパンほど残されることはなかったが、外面的効果を廃して、ピアノ音楽史上の名作にこれだけの情感を与えた演奏は多くない。◆ラヴェル - ミュンシュ指揮のパリ管弦楽団との協演になる左手のためのピアノ協奏曲は、フランス音楽における演奏芸術の一つの頂点をなしていると言って過言ではない。弾き間違いも多いが、カデンツァの濃厚な詩情は他のピアニストを寄せ付けない凄みを持つ。◆フランク:交響変奏曲 - コルトー全盛期の演奏。現在の奏者が演奏すると、楽譜通りのインテンポで地味に仕上がることが多く(21世紀以降は特に)ピアニストや指揮者からも敬遠されることが多くなった今日、この作品に対する最上の解釈を提供した演奏として、現在も復刻が絶えることがない。◆ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 - コルトー指揮の録音は多くは残っていないが、ティボー、カザルスとの仲が良かった時期に録音されていたことは幸いであった。テンポがピアノ・ソロのように変化し、一切の乱れもない。』↓♪~



Alfred Denis Cortot plays Debussy in Cinephonie.




1888年 - T・S・エリオット、詩人(+ 1965年)
『トマス・スターンズ・エリオット(英: Thomas Stearns Eliot、1888年9月26日 - 1965年1月4日)は、イギリスの詩人、劇作家で文芸批評家である。代表作には、5部からなる長詩『荒地』(The Waste Land、1922年)、詩劇『寺院の殺人』(Murder in the Cathedral、1935年)、詩劇論『詩と劇』(Poetry and Drama、1951年)などがある。【生涯】:誕生はアメリカ合衆国のミズーリ州セントルイス。ハーバード大学で、アーヴィング・バビットに師事し、卒業後、ヨーロッパ各地と米国を往復し、研究活動を行う。その後はソルボンヌ大学やマールブルク大学、オックスフォード大学にも通う。1927年にイギリスに帰化し、イギリス国教会に入信。「文学では古典主義、政治では王党派、宗教はアングロ・カトリック」と自身を語っている。有名な「四月は残酷きわまる月(April is the cruellest month)」で始まる長編詩『荒地』で第一次世界大戦後の不安を描きだした。また、評論『伝統と個人の才能』(Tradition and the Individual Talent、1919年)によって、保守主義の思想家としても知られている。この中で、エリオットは「詩人とは表現するべき個性を持たず、特定の表現手段を持つ人で、それは個性ではなく手段であり、その中で印象や経験が特殊な予期せぬ状態で結合する。」と書いている。1948年度のノーベル文学賞を受賞した。日本語訳の著作集は、弥生書房から『エリオット選集』(全4巻別巻1)と、中央公論社から『エリオット全集』(全5巻、実質的には自選集)が各2度出版された。』

1889年 - ハイデガー、哲学者(+ 1976年)
『マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889年9月26日 メスキルヒ- 1976年5月26日フライブルク)は、ドイツの哲学者。ハイデガーとも表記される。【哲学・影響】:現象学の手法を用い、存在論を展開した。後の実存主義などにも多大な影響を及ぼした。その中心的努力は、解釈学的現象学、現象学的破壊、存在の思索といった時期とともに変遷する特徴的思索をもって、伝統的形而上学を批判し、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事に向けられた。その多岐に渡る成果は、彼の影響を直接にうけた弟子たちが後に現代哲学に多大な足跡を残した事、またハイデッガー以後の哲学者たちが、彼の著作から新しい思索の可能性を発展させた事により、ドイツだけではなく20世紀の世界の哲学・人文諸科学にもっとも重大な影響力を及ぼすものとなった。また 1930年代に一時的にせよ彼がナチスへ肯定的な発言をしたことも、彼の哲学がたびたび緊迫した論争の主題へ上ることと関わっている。しかし彼は再び表舞台で発言することになる。それは彼の哲学が与えた影響の大きさを物語っている。』

1891年 - シャルル・ミュンシュ、指揮者(+ 1968年)
『シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891年9月26日 - 1968年11月6日)は、当時ドイツ領であったアルザス・ストラスブールに生まれ、のちフランスに帰化した指揮者である。【人物】:ミュンシュは、長い指揮棒を風車のように振り回す情熱的な指揮ぶり、爆発的な熱気あふれる音楽表現で高い人気を誇った。また、即興の名手であり、大の練習嫌いとしても知られている。仮に綿密なプローベをしたとしても、本番中悪魔のような笑みを浮かべつつ練習とは全く違う指示を出すことも多かったとも言われている。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした(この両国間で帰化した音楽家は意外と少ない)。ことにベルリオーズの演奏は高く評価された。その一方で、ベートーヴェンやブラームスなどでも定評がある。長いコンビだったボストン交響楽団との演奏がRCAレーベルに、晩年のパリ管弦楽団との録音がEMIレーベルに主として残されている。特に後者における、ベルリオーズの『幻想交響曲』とブラームスの第1交響曲のレコード・CDは評価が高い。また、「小澤征爾」やシャルル・デュトワを教えたことでも知られている。』↓♪~



Charles Munch Conducts "La Mer" and "Daphnis Et Chloé" bits




1893年 - 斎藤佐次郎、金の星社創業(+ 1983年)
『斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9月26日-1983年(昭和58年)12月11日)は、出版社金の星社の創業者。児童雑誌『金の船』(後『金の星』と改題)主宰者。1893年(明治26年)父佐次郎(佐次郎と同名)の5男として生まれる。父親は人力車の防水幌や雨合羽の防水加工で財を成した。佐次郎が成人する前に両親と死別するが、父親の遺産により裕福な青年時代を送る。早稲田大学英文科卒業。在学中には坪内逍遥や島村抱月らの指導を受け、文学への道を志す。1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意。島崎藤村、若山牧水、西條八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西條八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊、自ら執筆にも関わる。その後中山晋平より本居長世の紹介を受け、野口雨情と本居長世による多くの童謡を世に送り出した。童謡は『赤い鳥』に掲載された西條八十と成田為三による『かなりや』を嚆矢とするが、その後の『赤い鳥』には童謡の掲載は少なく、むしろ『金の船』が童謡普及運動を牽引したといってよい。最盛期の発行部数は2万5千部にのぼった。1922年(大正11年)6月、金銭上の問題から横山寿篤と袂を分かつ。『金の船』の発行名義は出版社社長である横山寿篤となっていたため、金の星社を設立し、それまでの執筆陣らと共に新たに雑誌『金の星』を発刊。横山寿篤の『金の船』と分裂する事態となった。『金の星』はその後も引き続き読者の支持を得るが、やがて童謡人気の衰退に伴い、1929年(昭和4年)7月、『金の星』終刊。その後も児童図書の出版に力を注ぐが、1981年(昭和56年)金の星社の社長職を子息に譲り、会長に就任。1983年(昭和58年)脳梗塞で死去。著作に『斎藤佐次郎・児童文学史』、『みんなで書いた野口雨情伝』など。』

1897年 - パウロ6世、ローマ教皇(+ 1978年)
『パウロ6世(Paolo VI, 1897年9月26日 - 1978年8月6日)は、第262代ローマ教皇(在位:1963年6月21日 - 1978年8月6日)。本名はジョバンニ・バッティスタ・モンティニ(Giovanni Battista Montini)。第2バチカン公会議をヨハネ23世から引継いで全うし、その理念の実施を促進。パウルス6世(Paulus VI)とも表記される。【生涯<教皇>】:モンティニはヨハネ23世のよき協力者として第2バチカン公会議の運営を行った。ヨハネ23世が会期途中で死去すると、モンティニは教皇に選ばれ、「パウロ6世」を名乗った。パウロ6世は自らの教皇冠をアメリカのワシントンD.C.にある無原罪の御宿りの聖母教会に寄贈した。ちなみにパウロ6世が最後に教皇冠を受けた教皇となった。次の教皇ヨハネ・パウロ1世は戴冠式を拒否して就任式に変更し、以後の教皇もそれに倣っているためである。パウロ6世は公会議を全うさせ、その理念に基づく教会改革の実施に取り組んだ。また、パウロ6世のもとでシノドス(司教会議)が初めて行われ、現代にいたっている。教皇としてパウロ6世が発布した回勅「フマーネ・ヴィテ」は大きな論議を呼んだ。それはカトリック教会が人工的な産児制限を否定したためであった。この人工産児制限および司祭の独身性という二つの問題はこの時代に全世界で論議を呼び、教皇の頭を悩ました。「旅する教皇」といわれたパウロ6世は「初めて」づくしの教皇でもあった。教皇としてはじめて5大陸をめぐり、はじめて飛行機を利用した教皇となり、はじめて聖地エルサレムに足を踏み入れた教皇にもなった。エキュメニズム(教会の一致)にも心を注ぎ、教皇として初めて英国国教会のカンタベリー大主教や、東方教会の総主教たちを訪問した。また、彼の時代、枢機卿団の人数が増やされ、80歳以上の枢機卿のコンクラーヴェでの投票権を廃するなど教皇選出の方法の改革が行われた。精力的に活動し、全世界を旅したパウロ6世は第2バチカン公会議後の新しい教皇像を示した。パウロ6世は1978年にカステル・ガンドルフォの教皇別荘で死去したが、パウロ6世の示した「現代の教皇としての姿勢」は、後継の教皇たちに引き継がれていった。』

1898年 - ジョージ・ガーシュウィン、作曲家(+ 1937年)
『ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin, 1898年9月26日 - 1937年7月11日)は、アメリカの作曲家。ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍し、「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られる。通称「完璧な音楽家」。』↓(>p<#)♪~



George Gershwin plays I Got Rhythm




1911年 - 尾高尚忠、作曲家(+ 1951年)
『尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 1951年2月16日)は、日本の作曲家、指揮者。祖父は渋沢栄一の従兄で義兄でもある実業家尾高惇忠、父は漢学者・銀行家の尾高次郎、兄に郷土教育家尾高豊作、法哲学者尾高朝雄、社会学者尾高邦雄らがいる。母方の祖父が子爵・渋沢栄一。妻の尾高節子はピアニスト。長男は作曲家の尾高惇忠、次男は指揮者の尾高忠明。弟子には林光らがいる。【生涯】:東京府生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、成城学園中退の後1931年にウィーンに留学、ピアノをベルタ・ヤンベール、音楽理論をリヒャルト・シュテールに学んだ。翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに就いた。1934年に再びウィーンに渡り、作曲をヨーゼフ・マルクス、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学び、個人的にフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮の教授を受けた。在欧中の1938年からはウィーン交響楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立つなど指揮者として活躍し、併せて自作の披露も行った。ウィーンではヴァイオリニストのヴォルフガング・シュナイダーハンと親交があった。1940年に帰国後、1941年1月に新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮し、日本デビューを飾る。新交響楽団が日本交響楽団に改組する直前に山田和男とともに新響の専任指揮者となり、時期的に演奏活動が難しくなっていったジョセフ・ローゼンストックを支え、また定期演奏会の指揮台に立った。戦後も引き続いて日響のタクトを振って活躍したが、戦中~戦後に蓄積した極度の疲労から1951年1月12日の名古屋での地方公演を最後に病に倒れ、39歳の若さで夭折した。3月5日に山田和男指揮による追悼演奏会が行われた。尾高は死の直前、日響機関誌「フィルハーモニー」に『強行軍的演奏旅行』と形容した当時の日響の超多忙ぶりを示した寄稿をしており、また、尾高の死後には音楽評論家の野村光一が、「尾高を殺したのはNHKである。NHKがすべて面倒を見ていれば、楽員は多忙から解放されたはずだ」云々という一文を毎日新聞に寄稿したことがきっかけとなり、日響は尾高の死後の約半年後にNHKの全面支援を受けることとなり、「NHK交響楽団」に改称されることとなった。世代的には、2006年12月まで長寿を全うした安部幸明と同年である。さらに、山田の1歳上で朝比奈隆より3歳下、尾高と同じく早世した貴志康一より2歳下であった。山田、朝比奈の高齢での活躍ぶりを考えると、貴志とともに早世が惜しまれる指揮者である。早世したことにより、尾高の残された映像や録音は極めて少なく、録音では東京交響楽団(東京フィルハーモニー交響楽団の前身であり、現在の同名オーケストラとは異なる)を指揮し、安川加壽子と共演したサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番「エジプト風」のスタジオ録音(1943年、ビクター)と、自作の交響曲第1番を振った断片的なライヴ録音ぐらいしかなく、映像では、1948年の放送芸能祭でベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」の第2幕を指揮しているものしか残されていない。』↓♪~



2008ピティナ・入賞者記念コンサート 鵜生川 育実&高橋 晴子/尾高 尚忠:みだれ 2台のピアノのためのカプリッチョ





【PS.著名人の波に飲み込まれるよぉ~。。。はぁ~、ようやっと音楽が聴ける心の状態に戻ってきたのは嬉しいけど、まだまだかなぁ~。今回も良質の音色に耳を傾けながら、他の多種多様なカテゴリの著名人のプロフを自分なりにイメージして勝手な想像で思いをはせてみたりしてたけど、心地の良いメロディーが多かっただけに、聞きすぎて時間が午前0時っす(汗)寝ないと朝あふんな状態で苦労するんで寝ますです(#--)ノでは、まったりおやすみぃ~♪。o0打倒!全プロフ制覇。。。;@p@)ハァー!夢かっ(ホッ;】

1911年 - 永田亮一、政治家(+ 1997年)
1920年 - 梶岡忠義、元プロ野球選手(+ 2003年)
1927年 - ロマーノ・ムッソリーニ、ピアニスト・画家(+ 2006年)
1928年 - 鈴木義司、漫画家(+ 2004年)
1930年 - フリッツ・ヴンダーリヒ、テノール歌手(+ 1966年)
1930年 - 横山あきお、俳優
1932年 - マンモハン・シン、インド首相
1932年 - 長浜忠夫、アニメ監督(+ 1980年)
1934年 - 牧伸二、漫談
1934年 - 山本哲也、元プロ野球選手
1935年 - 佐久間進、実業家
1939年 - 樋口正蔵、元プロ野球選手
1940年 - アントン・ウィッキー、タレント
1941年 - サルヴァトーレ・アッカルド、ヴァイオリニスト
1942年 - 作間功、声優
1945年 - ブライアン・フェリー、ミュージシャン
1947年 - ジェイムズ・スウェアリンジェン、作曲家
1948年 - オリビア・ニュートン=ジョン、歌手
1948年 - 柳沢きみお、漫画家
1949年 - ハナ・マシュコヴァー、フィギュアスケート選手(+ 1972年)
1950年 - たちはらるい、シンガーソングライター
1950年 - 菊容子、女優(+ 1975年)
1950年 - 風間深志、ライダー、冒険家
1952年 - 伊藤之雄、政治学者・歴史学者
1953年 - フランシスコ・アスカルゴルタ、サッカー選手
1954年 - 黒岩祐治、ニュースキャスター
1954年 - 工藤重典、フルート奏者
1955年 - 石井昭男、元プロ野球選手
1955年 - 佐々木ベジ、実業家
1956年 - リンダ・ハミルトン、女優
1957年 - 木根尚登、ミュージシャン(TM NETWORK)・小説家
1957年 - 天童よしみ、歌手
1957年 - ディド・ハーフナー、元サッカー選手
1959年 - J.P.リッチアーディ、トロント・ブルージェイズ前ゼネラルマネージャー
1960年 - ウーベ・バイン、元サッカー選手
1961年 - 杉作J太郎、漫画家・フリーライター
1961年 - 光石研、俳優
1963年 - あおい洋一郎、声優
1964年 - 関清和、元プロ野球選手
1967年 - ブライアン・トラックスラー、元プロ野球選手(+ 2004年)
1967年 - 横田睦美、元おニャン子クラブ
1968年 - 富川春美、元おニャン子クラブ
1968年 - かせきさいだぁ≡、ミュージシャン
1970年 - 池谷幸雄、体操競技選手・タレント
1970年 - 長嶋正興、レーサー
1972年 - 西口文也、プロ野球選手(埼玉西武ライオンズ)
1973年 - 佐野瑞樹、俳優
1974年 - 藤本達也、ガスコイン・カンパニーの社員
1975年 - 福ノ灘貴史、元大相撲力士
1976年 - ミヒャエル・バラック、サッカー選手
1976年 - 永田睦子、元バスケットボール選手
1977年 - 佐藤藍子、女優・タレント
1977年 - 稲田奈緒、女優
1977年 - アーロン・マイエット、元プロ野球選手
1977年 - マガリ・サウリ、フィギュアスケート選手
1978年 - 沢木まゆみ、元AV女優
1978年 - 宮下栄治、声優
1979年 - KING、ミュージシャン(SHAKALABBITS)
1979年 - 丸藤正道、プロレスラー
1979年 - リカルド・パルマ、野球選手
1980年 - 我那覇和樹、サッカー選手
1981年 - セリーナ・ウィリアムズ、テニス選手
1981年 - 華名、プロレスラー
1981年 - 恒松あゆみ、声優
1981年 - 大野ひとみ、お笑いタレント(すっとんきょ)
1982年 - 麻生真友子、女優・タレント
1982年 - 徳田いずみ、ファッションモデル
1983年 - 石井翔子、声優
1983年 - 柿本大地、プロレスラー
1984年 - 門脇聡子、お笑いタレント(ジェシカ)
1984年 - ウィルフィン・オビスポ、プロ野球選手(読売ジャイアンツ)
1984年 - 松岡慎弥、野球選手
1985年 - 秋山莉奈、女優・グラビアアイドル
1985年 - 伴杏里、女優
1985年 - 内海亮子、バスケットボール選手
1985年 - 小林はるか、フリーアナウンサー
1985年 - 大下孝太、声優
1985年 - 江本紘之、元ガスコイン・カンパニー社員
1986年 - 小松剛、プロ野球選手
1986年 - 船曳文士、騎手
1986年 - リカルド・クアレスマ、サッカー選手
1987年 - 長崎莉奈、女優・グラビアアイドル
1987年 - ブレイク・シン、騎手
1988年 - たえさん、ミュージシャン(オレスカバンド)
1988年 - 黒木マリナ、アイドル
1988年 - 鹿谷弥生、グラビアアイドル
1988年 - キーラ・コルピ、フィギュアスケート選手
1988年 - リナ・ヨハンソン、フィギュアスケート選手
1989年 - 真琴、女子プロレスラー
1990年 - 嘉藤ユーキ、役者
1990年 - 城島ゆかり、アイドル(JK21)
1995年 - 羽矢有佐、ジュニアアイドル
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Posted by 渡瀬側治 at 2010/09/26 22:34 | Top▲
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