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9月23日の誕生花は「いちい(Yew Tree)」で花ことばは「高尚(Nobility)」。花占いは?


「いちい(Yew Tree)」はイチイ科でヨーロッパ・アジアが原産国。



漢字では「一位」と書きます。別名は「あららぎ」。英雄ロビン・フッドが、この木と関係が深いのです。



リチャード王に忠誠を誓い、その信頼を得て暴れまくっていたロビン・フッド。ところが王の死、マリア姫も失い、ロビン・フッドは討ち取られることになりました。新しい王の部下と戦い、傷ついた彼は、修道院長である妹にかくまってもらいました。やっと駆けつけたリトルジョンに、ロビンは「この矢の落ちたところに埋葬してくれ」といいました。やがて最後の力をふりしぼり、矢を放ちます。その矢が刺さったのが、いちいの木の根元。そこで遺言どおり、リトルジョンは泣きながら、彼をその木の下に葬ったということです。





9月23日の誕生花は「いちい(Yew Tree)」。

花ことばは「高尚(Nobility)」。

【9月23日の花占いは?】



優雅な養子に、上品な物腰。年を重ねるごとに、ますます磨きがかかります。どこか人を寄せ付けない雰囲気のある人。愛する人も、あなたの誇りの高さに自信を失い、去ってしまうことになりかねません。本音で交渉しましょう。明るさや茶目っ気を身につけないと、憂愁のよく似合う麗人になってしまいますよ☆★☆
【9月23日生まれの著名人は?】


紀元前63年 - アウグストゥス、初代ローマ皇帝(+ 14年)

『アウグストゥス(古典ラテン語:Imperator Caesar Divi Filius Augustus (インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス)、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス)紀元前63年9月23日 – 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、帝政(元首政)を創始、「ローマの平和」を実現した。』


1158年 - ジョフロワ2世、ブルターニュ公(+ 1186年)

『ジョフロワ2世(Geoffroy II, ブルトン語:Jafrez II, 1158年9月23日 - 1186年8月19日)は、ブルターニュ公(在位:1181年 - 1186年)およびリッチモンド伯。イングランド王ヘンリー2世と妃アリエノール・ダキテーヌの四男。英語名はジェフリー(Geoffrey)。兄若ヘンリー王、リチャード1世、弟ジョンがイングランド王位に就いているが、リチャード1世はジョフロワの遺児でブルターニュ公位を継いだアルテュール(アーサー)を後継者に考えていた。1181年にブルターニュ公コナン4世の娘で相続人のコンスタンス女公と結婚し、自らもブルターニュ公となった。1186年、フランス王フィリップ2世がパリで催した馬上槍試合で負傷し、間もなく急死した。コンスタンスとの間に1男2女をもうけた。』


1161年(応保元年9月3日) - 高倉天皇、第80代天皇(+ 1181年)

『高倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年2月6日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年3月30日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。【略歴】:政界の実力者・平清盛の義理の甥にあたる事に加えて、当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、二条天皇の死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)をわずか3歳で退位させ、天皇として擁立された。政務は父後白河院が院政を敷き、平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲った。治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、自ら院政を開始するが間もなく病に倒れた。後白河院と平氏の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平氏一門と組んで政治を推し進める意図を持っていたとの説も出ている。色白で美しい容姿であり、その人柄は多くの廷臣から慕われていたという。』


1215年 - クビライ、モンゴル帝国第5代皇帝(+ 1294年)

『クビライ(Qubilai, Khubilai, 1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)(在位1260年 - 1294年)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では Хубилай хаан。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآنQūbīlāī qā'ān など書かれる。漢風の廟号は世祖、諡は聖徳神功文武皇帝。モンゴル語の尊号はセチェン・カアン(薛禪皇帝 Sečen Qa'an 、セツェン・ハーン)。【生涯<即位以前>】:クビライは、1215年にチンギス・カンの四男トルイの子として生まれた。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる。青年時代の事歴についてはほとんど知られていない。1251年に兄モンケがモンゴル皇帝(カアン)の座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられた。1252年には自身が所領とする京兆(唐の長安、現在の西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させた。雲南からの帰還後は金の旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノールに幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服の総指揮を取った。クビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索した。しかし、南宋を早急に併合することを望むカアンのモンケはクビライの慎重策に不満を持ち、1256年に南宋への戦線を自らの陣頭指揮により行うことを決し、クビライをこの作戦の責任者から更迭した。1258年、自ら陝西に入って親征を開始したモンケは、河南から四川の南宋領を転戦したが、翌1259年に軍中で流行した疫病に罹って病死した。』


1439年 - フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ、イタリアの芸術家・建築家・軍事技術者(+ 1501年)

『フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(Francesco di Giorgio Martini, 1439年9月23日 - 1501年11月29日)は、イタリア初期ルネサンスの彫刻家・画家・建築家・建築理論家・軍事技術者。特に理論家として大きな影響力を持ち、また、記録は残っていないが多くの作品が彼の手によるものとされる。【生涯】:家禽商人の子としてシエナに生まれ、彫刻家および画家として修行した。1477年頃にウルビーノに移り、軍事技術者としてフェデリコ・ダ・モンテフェルトロに仕え、1482年には『市民建築および軍事建築に関する理論書(Trattato di Architettura civile e militare)』を著している。この理論書は写本として流布したが、レオナルド・ダ・ヴィンチに大きな影響を与えたと考えられている。軍事技術者として、また構造設計者として評判が高く、ミラノに滞在した際には、その知識を得るためにレオナルドが彼を訪ねたことが知られている。 建築家としては、ウルビーノのパラッツォ・ドゥカーレの建設に携わったとされるが、どの部分を彼が設計したかについては議論がある。その他、コルトーナのサンタ・マリア・デル・カルチナーイオ教会堂が彼の手によるが、これ以外の建築家としての経歴は、今日では不確かなものになっている。』


1569年(永禄12年8月13日) - 立花千代、戦国時代の女性当主( +1602年)

『立花 千代(たちばな ぎんちよ、永禄12年8月13日(1569年9月23日) - 慶長7年10月17日(1602年11月30日))は、戦国時代の女性。【逸話】:父譲りの武勇に長けた姫という話が多く伝わっている。1)宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、豊臣秀吉は千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ手込めにしようとしたが、それを察知した千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて護衛させ、また自らも武装をして乗り込んだ為、それに恐れをなした秀吉は手も足も出なかったとされる。2)宗茂が不在の間、城の守りは妻である千代が任せられていた。そのため侍女たちとともに武装し、敵からの攻撃に備えていた。3)関ヶ原の戦いで敗北した際には、居館から甲冑を着て出撃、攻め寄せる東軍を威嚇したとされている。』


1598年 - エレオノーラ・ゴンザーガ、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世后

『エレオノーラ・ゴンザーガ(Eleonora Gonzaga, 1598年9月23日マントヴァ - 1655年6月27日インスブルック)は、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の2度目の妻で皇后。ゴンザーガ家の出身で、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世とエレオノーラ・デ・メディチの娘。当時、きわだった美しさで有名な女性だった。1622年にフェルディナントと結婚したが、子はいなかった。グラーツとウィーンにカルメル会の施設を建てた。』


1713年 - フェルナンド6世、スペイン王(+ 1759年)

『フェルナンド6世(Fernando VI, 1713年9月23日 - 1759年8月10日)は、スペイン王(在位:1746年 - 1759年)。フェリペ5世と最初の王妃マリア・ルイサ(サヴォイア公、サルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世の娘)の四男。父フェリペ5世は1724年に一時退位し、フェルナンドの長兄ルイス1世に王位を譲っていたが、ルイスがその年のうちに急死したため復位し、1746年に死去するまで在位した。他の兄はルイスより先に早世していたため、フェリペ5世の死に伴いフェルナンドが王位についた。フェルナンドは1729年にポルトガル王ジョアン5世の娘バルバラと結婚したが、子供はできなかった。フェルナンドの死後、ナポリ王およびシチリア王であった異母弟カルロスが代わってスペイン王位についた。』


1740年(元文5年8月3日)- 後桜町天皇、第117代天皇(+ 1813年)

『後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏11月2日(1813年12月24日))は第117代天皇(在位:宝暦12年7月27日(1762年9月15日)- 明和7年11月24日(1771年1月9日))。江戸時代、また現在まで最後の女性天皇。幼名を以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)、諱を智子(としこ)という。【生涯<天皇時代>】:宝暦12年(1762年)、異母弟桃園天皇の遺詔を受けて践祚。だが、実際には桃園天皇の皇子英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さであったこと、桃園天皇治世末期に生じた竹内式部一件(宝暦事件)では、天皇が幼い頃から自分に付き従っていた側近たちを擁護して側近の追放を要請した摂関家との対立関係に陥ったことから、英仁親王が即位した場合に同じ事態が繰り返されることが憂慮された。このため、五摂家の当主らが秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、天皇の異母姉である智子内親王が英仁親王と血縁が近く、政治的にも中立であるということで、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請したのである。この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。また、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となった。即位および大嘗祭は男帝同様に挙行された。女帝の礼服(即位用の正装)と束帯(通常の正装・男帝の黄櫨染に相当)は明正天皇の例に従って白竜文(竜文は無文の綾地綾)を使用した。礼服はほぼ男子の礼服に準じた形式で(纐纈裳が加わる)、束帯は裳唐衣五衣のいわゆる十二単であった。明正天皇の時にはまだ復興していなかった大嘗祭・新嘗祭の装束としては、御斎服・帛御服があるが、前者は男子同様の仕立てで髪型が大垂髪であることだけが異なり、後者は白平絹の裳唐衣五衣である。普段は大腰袴姿であった。』


1759年 - クロティルデ・ディ・ボルボーネ=フランチア、サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世妃

『クロティルデ・ディ・ボルボーネ=フランチア(イタリア語全名:Maria Clotilde Adelaide di Borbone-Francia, 1759年9月23日 - 1802年3月7日)は、サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世の妃。フランス王ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世の妹。フランス語名はクロティルド・ド・フランス(Marie Adélaïde Clotilde Xavière de France)。フランスのドーファン(王太子)ルイ・フェルディナンと妃マリー=ジョゼフ・ド・サクスの次女としてヴェルサイユで生まれた(長女は夭折しているため、実質的には長女)。ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世の妹、エリザベート王女の姉にあたる。1775年、当時サルデーニャ王子であったカルロ・エマヌエーレと結婚した。夫との間には子が生まれなかったが、夫婦仲は良好であった。生涯を通じて故国フランスへ戻ることは一度もなく、1789年のフランス革命発生後、国を脱出した親族らをトリノへ迎え入れた。実兄アルトワ伯シャルル(のちのシャルル10世)、叔母アデライード王女、ヴィクトワール王女は、一時期クロティルデの元に身を寄せていた。1796年、カルロ・エマヌエーレ4世が即位する。当時、フランス革命政府とサルデーニャ王国は交戦中であった。1798年以降、イタリア本土に持つ領土をフランスに占領され、カルロ・エマヌエーレ一家はサルデーニャ島へ逃れることになった。統治に関心の薄かったカルロ・エマヌエーレは、王妃クロティルデとともに裕福なコロンナ家の食客となり、ローマやナポリで生活した。1802年3月、クロティルデは病のためナポリで死去し、ナポリのサンタ・カテリーナ・ア・キアイーア教会に埋葬された。同年6月にカルロ・エマヌエーレ4世は退位し、弟ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世が即位した。』


1771年(明和8年8月15日)- 光格天皇、第119代天皇(+ 1840年)

『光格天皇(こうかくてんのう、明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日))は、江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日) - 文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱ははじめ師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)に改めた。傍系であった閑院宮家出身のためか、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱心であった。実父慶光院と同じく歌道の達人でもあった。朝廷の権威の復権に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地をつくったと評価されている。【略歴】:元々は、閑院宮家から聖護院に入寺し出家する予定であったが、安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに内親王しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。当時、後継候補者として伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王と美仁親王の弟・祐宮師仁親王の3人がいたが、先帝の唯一の遺児欣子内親王を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前は貞敬親王を、九条尚実は師仁親王を推薦した。会議の結果、貞敬親王の方が年下で内親王とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、天皇と血筋が近い師仁親王が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。なお、この時に先々帝後桜町上皇は皇嗣継承のために伏見宮と接触、近衛内前と共に貞敬親王を推薦したが、貞敬親王が皇位に就くことはなかった。安永9年12月4日(1780年12月29日)、即位。天明2年(1782年)、京都御所が焼失したとき3年間、聖護院を仮御所とした。また、寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。天明の大飢饉の際には幕府に領民救済を申し入れて、ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務める。また、朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。寛政6年3月7日(1794年4月6日)、欣子内親王を中宮に冊立した。寛政12年1月22日(1800年2月15日)に2人の間に生まれたばかりの温仁親王を、早くも同年3月7日(3月31日)に儲君に治定するも、翌月4月4日(4月27日)に薨去。これを受け、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を文化4年7月18日(1807年8月21日)に儲君に治定し、文化6年3月24日(1809年5月8日)に皇太子とした。博学多才で学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜んだ。また400年近く途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や朝廷の儀式の復旧に努めた。さらに平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想したが、彼の在位中には実現せず、次代の仁孝天皇に持ち越されることになった(学習院 (幕末維新期)参照)。文化14年3月22日(1817年5月7日)、仁孝天皇に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる(現在までこれが最後の太上天皇である)。天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。69歳。現在の皇統は、光格天皇から続いているものである。』


1781年 - アンナ・フョードロヴナ、コンスタンチン・パヴロヴィチ大公妃(+ 1860年)

『ユリアーネ・ヘンリエッテ・ウルリケ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(Juliane Henriette Ulrike von Sachsen-Coburg-Saalfeld, 1781年9月23日 - 1860年8月15日)は、ロシアの皇族、ロシア大公妃。コンスタンチン・パヴロヴィチ大公の最初の妻。ロシア名アンナ・フョードロヴナ(Анна Фёдоровна / Anna Feodorovna)。ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツとロイス=エーベルスドルフ伯女アウグステの三女としてコーブルクに生まれた。弟にザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世、フェルディナント(ポルトガル王配フェルナンド2世の父)、ベルギー国王レオポルド1世、妹にケント公夫人ヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの母)がいる。コンスタンチン大公の花嫁探しをしていた女帝エカチェリーナ2世に選ばれ、わずか15歳で1796年に結婚。その9ヶ月後に女帝は亡くなった。結婚生活は不幸だった。コンスタンチンは17歳で、粗野で子供っぽく、若い妻を惨めにさせるばかりだった。3年後の1799年、耐えられなくなったユリアーネは突然コーブルクへ帰った。間もなくロシアへ戻り、コンスタンチンと関係を修復しようとするが、うまくいかなかった。1801年、ユリアーネは浅はかな情事を起こしてコーブルクへ向かい、二度とロシアへ戻らなかった。1808年10月、ユリアーネはエドゥアルトという男児を出産した。父親はフランスの下級貴族だった。1812年からスイスのベルンに移ったユリアーネは、第2子ルイーズを出産した。父親はユリアーネの警護をしていたスイス人だった。1814年、コンスタンチン大公がユリアーネを連れ戻すべくロシアからやってきたが、彼女は拒絶した。その年、ユリアーネはベルンの近郊エルフェナウに領地を手に入れ、ここで残りの人生を過ごすことになった。1820年に、19年の別居を経て、コンスタンチンとの結婚が無効になった。』


1791年 - ヨハン・フランツ・エンケ、ドイツの天文学者(+ 1865年)

『ヨハン・フランツ・エンケ(Johann Franz Encke, 1791年9月23日 - 1865年8月26日)はドイツの天文学者である。エンケ彗星の軌道を求めた業績などで知られる。【生涯】:エンケはドイツのハンブルクに生まれた。1811年からゲッティンゲン大学でカール・フリードリヒ・ガウスの下で数学と天文学を学んだが、1813年から1814年にかけてのナポレオン戦争のドイツ・フランス戦役ではハンザ都市軍の一員として彼も従軍し、1815年にはプロイセン軍の砲兵隊中尉となった。1816年にゲッティンゲンに戻るとすぐにゴータ近くのゼーベルク天文台でベルンハルト・フォン・リンデナウの助手に採用された。この天文台でエンケは1680年に出現した彗星の研究を完成させ、この業績によって1817年に Cotta prize を受賞した。また彼は1812年に出現した彗星が71年の軌道周期を持つことを正しく示した。この彗星は今日ではポン・ブルックス彗星と呼ばれている。長文なので以下省略っ』


1846年 - アーサー・ヘスケス・グルーム、イギリス出身の実業家・六甲山開発者(+ 1918年)

『アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom、1846年9月23日 - 1918年1月9日)は、幕末から明治にかけて日本で活躍したイギリス出身の実業家。六甲山の開発と景観保護に力を注ぎ、「六甲山開祖」と呼ばれた。【六甲山の開発】:グルームは六甲山の開発に力を注いだ。きっかけとなったのは五男がろう者であったことを趣味の狩猟で多くの動物を殺した報いと感じ、罪滅ぼしに狩猟をやめ、動物が多く住んだ六甲山の自然を守ろうとしたことにあったとされる。1895年、グルームは長男亀次郎の名義で六甲山上の1万坪あまりの土地を畑原村など3つの村から納涼遊園場敷地として借りた。グルームはまず三国池付近の45坪ほどの土地に自分の別荘を建て、その後別荘地を外国人に分譲した。グルームが建てた別荘は六甲山上に建てられた最初の人家であり、「101番屋敷」「百壱」と呼ばれた。グルームはスポーツマンとして知られ、神戸外国人居留地内に発足したスポーツクラブ(神戸クリケットクラブ・神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC)の設立に深く関与していた。グルームはKRACに高齢のメンバーを勧誘するため、土地の安い六甲山にゴルフ場を建設することを思い立った。工事は1898年頃に開始され、1901年に4ホールのコースが完成した。このコースをもとに1903年、会員制のゴルフ場神戸ゴルフ倶楽部が発足した。グルームは植林や桟道の整備開発に私財を投じ、六甲山が避暑地・リゾート地として繁栄する礎を築いた。明治末には建てられた別荘は60戸、住人の外国人は100人以上を数え、別荘地一帯は「神戸外国人村」と呼ばれた。六甲山を開発した功績からグルームは「六甲市長」と呼ばれた。』


1849年 - フーゴ・フォン・ゼーリガー、ドイツの天文学者(+ 1924年)

『フーゴ・フォン・ゼーリガー(Hugo von Seeliger, 1849年9月23日 - 1924年12月2日)はドイツの天文学者である。宇宙の無限の大きさと重力に関する「ゼーリガーのパラドックス」で知られる。1881年から1882年の間、ゴータ天文台の所長を務めた。その後ミュンヘン大学の教授となった。ボーゲンハウゼン天文台の設立者の一人である。ゼーリガーのパラドックスとは、 宇宙が一様かつ無限であれば、宇宙の無限の数の星からの重力の総和も無限にならなければならないというものである。ゼーリガーはこのパラドックスに対して、アイザック・ニュートンの万有引力の法則を修正することを提案した。(※ パラドックス (paradox) という言葉は多義であるが、正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す。「妥当に思える推論」は狭義には(とりわけ数学分野においては)形式的妥当性をもった推論、つまり演繹のみに限られる。しかし一般的にはより広く帰納など含んだ様々な推論が利用される。また「受け入れがたい結論」は、「論理的な矛盾」と「直観的には受け入れがたいが、別に矛盾はしていないもの」に分けることができる。狭義には前者の場合のみをパラドックスと言い、広義には後者もパラドックスという。こうした区分は主に数学分野を中心に行われるもので、結論が直感的に受け入れやすいかどうかではなく、公理系の無矛盾性をより重視する所から来る区分である。論理学者のハスケル・カリーは、単に直感に反しているだけで矛盾は含んでいないパラドックスのことを、擬似パラドックス(pseudoparadox)、と呼び、矛盾を含むパラドックスと区別した。数学以外の分野では「パラドックス」という言葉はよりラフに用いられ、「ジレンマ」、「矛盾」、「意図に反した結果」、「理論と現実のギャップ」等、文脈により様々な意味に用いられる。日本語では逆説、逆理、背理と訳される。語源はギリシャ語(παράδοξον < παρα-, para-:反対の + δόξα, dóxa: 意見)。有名なものに、自己言及のパラドックス、リシャールのパラドックス、ベリーのパラドックスがある。)』


1861年 - ドラガ・マシン(英語)、セルビア王アレクサンダル1世妃(+ 1903年)

『。。。データ上の問題で省略っ』


1861年 - ロバート・ボッシュ、ドイツの発明家・ロバート・ボッシュ創業者(+ 1942年)

『ロバート・ボッシュ(Robert Bosch, 1861年9月23日 - 1942年3月12日)は、ドイツの発明家。世界的な自動車部品メーカーロバート・ボッシュの創立者。名前はドイツ語の発音で「ローベルト」とするほうがより正確であるが、日本においては英語表記の「ロバート」が一般的である。【概要】:ボッシュは1861年9月23日に12人兄弟の11番目として、ドイツ南部の裕福な農家に生まれた。父親はフリーメーソンで高等教育を受けており、自らもロバートを含む13人の子供たちを熱心に教育した。1869年にボッシュはウルムにある中等技術学校に入学し、1876年に卒業した。間もなく精密機械の見習工として就職し、その後母国ドイツ、アメリカ、イギリスの様々な会社で働いた。1886年11月15日にシュトゥットガルトに「精巧機械と電気工学の作業所」を開き、その翌年に磁気インジェクタの画期的な改良をし、最初の成功を収めた。この装置はエンジン内での空気と燃料の混合気体を点火するための電気発火を作り出すことを目的とした。1897年に最初の磁気点火装置を自動車のエンジンに搭載した。第一次世界大戦の戦闘機などにもボッシュの点火装置が取り付けられている。ボッシュは母国ドイツのナチス政権下において平和を進めようとしたが叶わず、会社はまもなく武装化契約を結んで強制労働者を受け入れた。彼はそれでも、ドイツ人でありながらアドルフ・ヒトラーに抵抗し、ユダヤ人の援助に協力した。親しい仲間と多くのユダヤ系の人々を追放から救った。ボッシュは農業も熱心に営み、ミュンヘンの南に広大な土地を所有していた。また同時に狩猟を好んだ。』


1865年 - シュザンヌ・ヴァラドン、フランスの画家(+ 1938年)

『シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon, 1865年9月23日 - 1938年4月7日)はフランス、モンマルトルの画家。画家になる前は、著名な画家のモデルでもあった。本名はマリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(Marie-Clémentine Valadon) 。画家モーリス・ユトリロの母である。【代表作】:[1]アダムとイヴ(1909年、ポンピドゥー・センター)。[2]網を打つ人(1914年、ポンピドゥー・センター)。[3]青い部屋(1923年、ポンピドゥー・センター)など。』


1871年 - フランティセック・クプカ、ボヘミア出身の画家(+ 1957年)

『フランティセック・クプカ(František Kupka, 1871年9月23日 - 1957年6月24日)は、20世紀の画家。抽象絵画・非具象絵画の最初期の作家の1人。遅くとも、1911年から1912年にかけて制作された抽象作品が存在する。フランチセック・クプカと表記する場合もある。東ボヘミア(現・チェコ)のオポチノに生まれ、パリ郊外のピュトーにて没する。ウィーンの美術アカデミーで学ぶ。初期には、幻想的な具象絵画を制作している。その後パリに移り、具象絵画から、キュビスムの影響を受けて次第に抽象化が進み、1911年から1912年ごろには完全な抽象絵画に至った。1910年代、1920年代は、カラフルで有機的な抽象作品であったが、1931年には、アプストラクシオン・クレアシオン(1930年代の抽象絵画参照)の主要メンバーともなり、1930年代には、幾何学的傾向が強まっていった。一般に、オルフィスムの画家に分類されることが多い。♪』


1878年 - 青山士、土木技師(+ 1963年)

『青山士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 1963年3月21日)は、静岡県磐田市生まれの土木技術者。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人であり、荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。【思想】:青山士の生き方は、無教会主義のクリスチャンであった内村鑑三の影響を強く受け、私利私欲のためではなく広く後世の人類の為になるような仕事をしなければならない、という思想を貫いた。この彼の思想は荒川放水路の記念碑、及び大河津分水路の改修記念碑に顕著にあらわれている。荒川と隅田川の分岐点、岩淵水門のそばにある荒川放水路の記念碑には「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と書かれており青山の名前は刻まれていない。また大河津分水路の脇にある補修工事竣工記念碑には、表面に「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」、裏面に「人類ノ為メ國ノ為メ」と、いずれもエスペラント語とともに刻まれている。』


1882年 - 田中萬逸、政治家(+ 1963年)

『田中 萬逸(たなか まんいつ、1882年9月23日 - 1963年12月5日)は、日本の男性政治家。元国務大臣・衆議院副議長。【来歴】:現在の大阪府富田林市に生まれる。早稲田大学を中退後、報知新聞記者を経て、1916年故郷の大阪府から衆議院補欠選挙に繰り上げ当選。以後当選14回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1939年阿部内閣にて逓信政務次官を務める。戦後は日本進歩党の結党に参加し幹事長を務める。1947年第1次吉田内閣が発足すると、党総裁幣原喜重郎の推挙により国務大臣(無任所)として入閣。同年新憲法下初の衆議院副議長となる。民主党の結党に参加したが吉田茂が次の首班たるべきと主張して離党し1948年2月同志クラブに参加。同志クラブは民主クラブを経て日本自由党と合同し民主自由党を結党したので田中も民自党に所属した。同年炭鉱国管疑獄で起訴されるも、1951年無罪確定。その間1950年からは自由党に所属。名文家にして野次の名手であり、また粋な道の達人として知られ、特に女流奇術師松旭斎天勝(初代)との艶聞が有名である。ただ生活態度は質素であり、酒もタバコも嗜まなかった』


1887年 - 下村定、陸軍軍人・政治家(+ 1968年)

『下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は大日本帝国陸軍の軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。高知県出身。【経歴】:陸軍士官学校20期生。同期に朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王、北白川宮成久王、吉本貞一、木村兵太郎、牛島満、酒井隆、飯田祥二郎らがいる。陸軍大学校28期を首席で卒業。同期に板垣征四郎、牛島満、木村兵太郎、田中静壱、山下奉文、吉本貞一、酒井隆、原田熊吉、村上啓作らがいる。終戦後、陸軍士官学校時代の同期の東久邇宮稔彦王が首相を務める内閣で陸軍大臣を務め、続く幣原喜重郎内閣でも留任し、日本で最後の陸軍大臣となった。終戦時下村は満州におり、下村の帰国まで東久邇宮が陸軍大臣を兼務している。第5回参議院議員通常選挙で当選し議員を務めている。』


1890年 - フリードリヒ・パウルス、ドイツの陸軍軍人(+ 1957年)

『フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(Friedrich Wilhelm Ernst Paulus, 1890年9月23日 - 1957年2月1日)は、第二次世界大戦の頃のドイツの軍人、陸軍元帥。スターリングラードに包囲され、ソ連軍の捕虜になった。【捕虜、戦後】:パウルスは、ソ連の捕虜となった後はヴィルヘルム・ピーク(のちの東ドイツ初代大統領)の説得を受け、ナチスに対する強い批判者となって、ドイツ共産党の指導する自由ドイツ国民委員会(de)やドイツ将校同盟(de)に名を連ねた。彼はスターリンにソ連に居るドイツ人捕虜からなる「ドイツ解放軍」結成を申し出たが、反応はなかった。捕虜収容所にいるかつての部下たちの中にはこの翻身を忌み嫌う者も多かった。ドイツが捕虜としていたスターリンの長男(ヤーコフ・ジュガシヴィリ)と捕虜交換する案がドイツから提示されたが、ソ連が拒否したため実現しなかった。ドイツにいた彼の妻子は1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件後に逮捕され、ダッハウ強制収容所に送られた。ニュルンベルク裁判ではナチス・ドイツの戦争犯罪を告発する検察側の証人として出廷した。その際収容所で重病になった妻に会う機会もなく、彼女は1949年に死去した。』


1896年 - 森信三、哲学者(+ 1992年)

『森 信三(もり しんぞう、1896年9月23日 - 1992年11月21日)は、哲学者・教育者。【語録】:人間の一生(読み人知らず):職業に上下もなければ貴賤もない。世のため人のために役立つことなら、何をしようと自由である。 しかし、どうせやるなら覚悟を決めて十年やる。すると二十からでも三十までには一仕事できるものである。それから十年本気でやる。 すると四十までに頭をあげるものだが、それでいい気にならずにまた十年頑張る。すると、五十までには群を抜く。しかし五十の声をきいた時には、大抵のものが息を抜くが、それがいけない。「これからが仕上げだ」と、新しい気持ちでまた十年頑張る。すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。だが、月並みの人間はこの辺で楽隠居がしたくなるが、それから十年頑張る。 すると、七十の祝いは盛んにやってもらえるだろう。しかし、それからまた、十年頑張る。するとこのコースが一生で一番面白い。』


1897年 - ポール・デルヴォー、ベルギー出身の画家(+ 1994年)

『ポール・デルヴォー(Paul Delvaux、1897年9月23日 - 1994年7月20日)は、ベルギー・リエージュ生まれの画家。16世紀のマニエリスト達の女性像や、独自の夢とノスタルジーの世界を築く。くり返し表現される裸体、建物、電車、背景にはギリシャ神殿がよく用いられる。静寂さの中に幻想的な世界が広がる。幻想画家といわれるゆえんがある。1935年以後、運動には直接参加しないままシュルレアリスム展にしばしば出品。長くブリュッセルに住んだが1994年に没す。ベルギー北西部のリゾート地KoksijdeのSint-Idesbaldには彼の主要作品を多く所有するポール・デルヴォー美術館[1]がある。愛知県美術館には代表作「こだま」(1943年)が収蔵されている。♪』


1900年 - ルイーズ・ネヴェルソン、ウクライナ出身の彫刻家(+ 1988年)

『ルイーズ・ネヴェルソン(Louise Berliawsky Nevelson, 1900年9月23日 - 1988年4月17日)はウクライナ出身のアメリカ人彫刻家。本名はレア・ベルリャフスキー(Leah Berliawsky)。捨てられた家具など日用品の廃物などを集め、これらを切り刻んで黒く塗り、黒い箱の中に入れて寄せ集める(アサンブラージュ)作品が中心である。椅子の脚やベッドの枠、野球のバットなど、黒く塗って箱の中に寄せ集められた日用品の残骸は箱の中で影を作り相互に作用する。さらに黒い箱は中身を表にして上に積み重ねられ、祭壇のように壁に立てかけられる。ネヴェルソンはかつて自分の作品について、「他の人たちの捨てた物でも、拾ってきて組み合わせると、それらの物が本当の生命を得ることができる-もと使われていた時の生命を超えた、精神的な命を。」と述べている。』


【PS.今日の歴史も面白かったぁ♪グローバルで物事を見るなら、このプロフから入ると自国だけでなく世界に目を向けられる良い教科書ですよね。はぁ~、寝る時間かぁ~、1900年代でその先が読めないのがなんとも。でもこれも自分の今できる範囲なので、バースデーフラワーズ第一に考え、お開きにしますぅ~#-p-)ノではまた明日ぅ~。。。あっという間に時間がつのりぃ~♪ BY B’Z。。。】


1901年 - 細川一、医師(+ 1970年)

1907年 - ドゥアルテ・ヌノ・デ・ブラガンサ、ブラガンサ公(+ 1976年)

1907年 - ドミニク・オーリー、フランスの小説家(+ 1998年)

1913年 - 吉田秀和、クラシック音楽評論家

1914年 - 東條輝雄、航空技術者・実業家

1915年 - クリフォード・シャル、アメリカの物理学者(+ 2001年)

1916年 - アルド・モーロ、イタリアの首相・法務大臣(+ 1978年)

1917年 - 中西陽一、政治家・石川県知事・知事在職年数最多記録保持者(+ 1994年)

1918年 - 平山菊二、元プロ野球選手(+ 1998年)

1921年 - 布施正、元調教師(+ 2001年)

1925年 - エレオノラ・ロッシ=ドラゴ、イタリア出身の女優(+ 2007年)

1926年 - ジョン・コルトレーン、アメリカのジャズサックス奏者(+ 1967年)

1929年 - シャーンドル・コチシュ、ハンガリー出身のサッカー選手(+ 1979年)

1930年 - レイ・チャールズ、アメリカの歌手(+ 2004年)

1934年 - 保利耕輔、政治家

1935年 - 御手洗冨士夫、実業家・キヤノン会長・第6代経団連会長

1935年 - フェントン・ロビンソン、アメリカのブルースギタリスト、歌手(+ 1997年)

1936年 - バレンティン・パニアグア、ペルーの政治家・大統領

1938年 - ロミー・シュナイダー、オーストリア出身の女優(+ 1982年)

1940年 - 沢田和猫、声優

1940年 - ゲルハルト・ヘンニゲ、ドイツの陸上競技選手

1943年 - フリオ・イグレシアス、アメリカのミュージシャン

1944年 - 守屋武昌、官僚・元防衛事務次官

1945年 - イーゴリ・イワノフ、ロシアの外交官・政治家・外務大臣

1949年 - ブルース・スプリングスティーン、アメリカのミュージシャン

1950年 - ディートマー・ローレンツ、東ドイツの柔道家

1954年 - シェリー・ブレア、イギリスの弁護士・トニー・ブレア首相夫人

1956年 - パオロ・ロッシ、イタリアの元サッカー選手

1957年 - 石塚元章、中部日本放送報道記者

1959年 - 藤原カムイ、漫画家

1959年 - ロザリンド・チャオ、アメリカの女優

1963年 - 川平慈英、俳優

1963年 - 勝呂壽統、元プロ野球選手

1963年 - 山根ミチル、ゲーム音楽作曲家

1963年 - ガブリエレ・ラインシュ、東ドイツの陸上競技選手

1964年 - イジリー岡田、タレント

1964年 - 稲葉浩志、ミュージシャン(B'z)

1964年 - 床嶋佳子、女優

1965年 - 藤井かほり、女優

1967年 - 中山雅史、サッカー選手

1967年 - 叶美香、タレント・元グラビアアイドル

1968年 - 阿部和重、小説家

1969年 - 鈴木杏樹、女優

1970年 - 初田啓介、TBSアナウンサー

1971年 - 松田賢二、俳優

1971年 - 出口雄大、元プロ野球選手

1972年 - 渡部建、お笑いタレント(アンジャッシュ)

1973年 - 服部年宏、サッカー選手

1973年 - 布部陽功、元サッカー選手・指導者

1973年 - 下山さおり、アナウンサー

1973年 - レネ・ローゼ、ドイツのフィギュアスケート選手

1974年 - エリック・ノット、アメリカ出身のプロ野球選手

1974年 - 井上晴美、女優

1975年 - 先野久美子、バレーボール選手

1975年 - みょーちゃん、お笑い芸人

1976年 - 松尾洋和、野球選手

1977年 - 城咲仁、タレント

1982年 - 韓寒、中国の作家

1983年 - 鈴木歩、囲碁女流棋士

1983年 - アルビス・オヘイダ、ベネズエラ出身のプロ野球選手

1984年 - 相川友希、アイドル(SDN48)

1985年 - うえむらちか、女優

1985年 - 後藤真希、女優・歌手(元モーニング娘。)

1985年 - ジョバ・チェンバレン、アメリカのメジャーリーガー

1986年 - 廣田詩夢、声優

1987年 - 谷内伸也、歌手

1988年 - 木村了、俳優

1988年 - 堂上直倫、プロ野球選手

1989年 - 押谷祐樹、サッカー選手

1990年 - 寺島咲、女優

1990年 - 崇岡白、俳優

1991年 - 朝倉あき、女優

1991年 - ダニエル・ドッツァウアー、ドイツのフィギュアスケート選手

1997年 - 武井証、俳優

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Posted by 渡瀬側治 at 2010/09/23 23:59 | Top▲
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