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9月20日の誕生花は「まんねんろう(Rosemary)」で花ことばは「私を思って(Think of me)」。


「まんねんろう(Rosemary)」はシソ科で地中海沿岸が原産。



ラテン語では、「海のしずく」。日本では「迷迭香」と書きます。



自分の未来を知りたくなったら、ローズマリーで占うことができます。マグダラのマリアのイブの日、二階の部屋へ、胸にローズマリーの小枝をさした3人が集まります。すりガラスの鉢にワイン、ラム酒、ジン、酢、水を混ぜてローズマリーの小枝を浸し、それぞれ3口ずつすするのです。さて、同じベッドで眠りましょう。その晩に見る夢こそ、未来の自分です。



まんねんろうは、全体に良い香りがします。この葉の常緑性から、「永遠の象徴」とされてきました。




誕生花は「まんねんろう(Rosemary)」。

花ことばは「私を思って(Think of me)」。

【9月20日の花占いは?】



誠実で親切なあなたは、人に好かれるタイプです。あなたとおしゃべりしただけで、胸のつかえがおりるよう。しかし、自分の事を相談するのは下手です。尊敬されているため、逆に愚痴を言いにくいのですね。早く愛する人を見つけて、甘えられるようになれば、今よりずっと楽しく暮らせますよ♪

【9月20日生まれの著名人は?】



1486年 - アーサー・テューダー、イギリス王太子(+ 1502年)

『アーサー・テューダー(Arthur Tudor, 1486年9月20日 – 1502年4月2日)はイングランド王ヘンリー7世と王妃エリザベスの第1王子でヘンリー8世の兄。プリンス・オブ・ウェールズに立てられたが、国王即位を果たせずに早世した。【生涯】:エリザベス・オブ・ヨークはヨーク家のエドワード4世の王女で、ヘンリー7世は対立するランカスター家の系統だったことから、2人の結婚によって長引く薔薇戦争(※ 薔薇戦争(ばらせんそう、英: Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱。)の内乱は終止符を打たれた。翌1486年、第1子アーサーが誕生すると、王太子(ウェールズ公)として、将来を期待された。アーサーの名前は、アーサー王伝説の根強いウィンチェスターで誕生したから、とされる。1489年3月、アーサーはアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベル1世の末娘カタリーナ・デ・アラゴン(英語名:キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon、1485年 - 1536年)と婚約した。アーサーは2歳、キャサリンは3歳だった。。。』


1599年 - クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル、プロテスタント派指導者(+ 1626年)

『クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(ドイツ語:Christian von Braunschweig-Wolfenbüttel, 1599年9月20日 - 1626年6月16日)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の1人で、ハルバーシュタット司教。ドイツの三十年戦争(※ 三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容されるが、スウェーデンが参戦した1630年以降は、ハプスブルク家、ブルボン家、ヴァーサ家による大国間のパワーゲームと捉える向きもある。)におけるプロテスタント派指導者。「狂信者(der Tolle)」、「無法者の公爵(wilde Herzog)」と呼ばれた。ヴォルフェンビュッテル侯ハインリヒ・ユリウスとデンマーク・ノルウェー王フレゼリク2世の娘エリサベトとのあいだの3男として、グレーニンゲンに生まれた。ヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ・ウルリヒは兄。』


1778年 - ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン 、ロシア海軍大将・南極大陸発見者(+ 1852年)

『ファビアン・ゴットリーフ・フォン・ベリングスハウゼン(英: Fabian Gottlieb von Bellingshausen、露: Фаддей Фаддеевич Беллинсгаузен、1778年9月20日 - 1852年1月13日)。』


1819年 - テオドール・シャセリオー、画家(+ 1856年)

『テオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau, 1819年9月20日 - 1856年10月8日)は、フランスの画家。ロマン主義に属する。自画像、歴史画、宗教画、寓意的な壁画、それにアルジェリア旅行にインスパイアされたオリエンタリズム溢れる作品が有名である。【作品について】:シャセリオーの作品はピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ギュスターヴ・モローの作風に強い影響を与えた。さらに、シャヴァンヌらの作品を通じて、ポール・ゴーギャン、アンリ・マティスの作品にも反映されていると言われている。』


1830年(天保元年8月4日) - 吉田松陰 、武士・長州藩士、思想家、教育者(+ 1859年)

『吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。【思想<一君万民論>】:「天下は一人の天下」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。なお、「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。』


1833年 - エルネスト・テオドロ・モネータ、イタリアのジャーナリスト・平和運動家(+ 1918年)

『エルネスト・テオドロ・モネータ(Ernesto Teodoro Moneta、1833年9月20日-1918年2月10日)はミラノ生まれのイタリアのジャーナリストで国際的な平和運動家である。1907年にフランスのルイ・ルノーとともにノーベル平和賞を受賞した。モネータの思想は、彼自身もしばしば用いた「軍事平和主義者」などの逆説的な言葉によって表わされる。また彼は国内主義的な国際主義者であり、信心深い反聖職者で、オフィスの向かいに昼食を食べに行くのにも電車を利用する健康追求者だった。【平和活動】:モネータの平和活動は文字を通してだけではなかった。彼は1895年に国際平和ビューローの委員会のイタリア代表となった。彼は長年に渡り平和会議に出席した。彼は1887年の設立時からl'Unione lombarda per la pace e l'arbitrato internazionaleという組織を支援し、彼自身もいくつかの組織を創設した。中でもSocietà per la pace e la giustizia internazionaleは1887年から彼の死後の1937年まで続いた。また彼はイタリアの大学でも教鞭をとった。1906年、彼はミラノで行われた国際博覧会で平和のパビリオンを建設した。また開催期間中に行われた第15回国際平和会議では議長を務めた。1900年から1918年に死去するまで、モネータは緑内障に苦しみ、ほとんど失明状態であった。しかし身体的な苦しみや年齢的な衰えがあってもモネータの熱意は衰えなかった。例えば第一次世界大戦中にもイタリアの戦争での役割を支持した。モネータは1918年に肺炎で亡くなった。1925年に友人らによって建てられた記念碑はファシスト政権時代は倉庫に隠され、第二次世界大戦での爆撃から守られた。この基盤に埋め込まれている銘板には、ガリバルディの戦友と平和の伝道者という、彼の矛盾した二つの面が描かれている。』


1842年 - ジェイムズ・デュワー、スコットランドの化学者・物理学者(+ 1923年)

『サー・ジェイムズ・デュワー(Sir James Dewar, 1842年9月20日 - 1923年3月27日)は、イギリスの化学者・物理学者。液体酸素が磁性を持つことの発見、水素の液化と固化の成功など低温物理学の分野で先駆的な研究を行った。また「魔法瓶(デュワー瓶)」や、「コルダイト火薬(無煙火薬の一種)」を発明した。』


1853年 - ラーマ5世、シャム(タイ)・チャクリー王朝第5代国王(+ 1910年)

『ラーマ5世(タイ語: รัชกาลที่ ๕、1853年9月20日 - 1910年10月23日)は、チャクリー王朝の第5代のシャム国王(在位:1868年10月1日 - 1910年10月23日)。チュラチョームクラオ、ピヤマハーラートや、幼名であるチュラーロンコーン(タイ語: จุฬาลงกรณ์, ラテン文字転写: Chulalongkorn)の名でも呼ばれる。漢名は鄭隆。【生涯<内政>】:即位するとすぐに欧米に視察旅行をしてタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。タイ三大王のうちの一人で今でも国民から人気が高く、肖像画が首飾りやポスターになったり、像が仏壇に置かれたりしている。1999年にはアメリカの『タイム』誌で、「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の1人にタイ人から唯一選ばれた。【家族】:チュラーロンコーンは正妻・副妻に異母の姉と妹を持ち、側室を入れた妻の数は160人以上、子供の数は77人と歴代最高だったため、ワット・プラケーオに併設された宮殿だけでは事足りず、ドゥシットに宮殿を造った。これはドゥシット宮殿と呼ばれているが、今は、ドゥシット公園動物園、ドゥシット公園師範学校、ウィマーンメーク宮殿、タイ王国国会議事堂、アナンタサマーコム宮殿、チットラダー宮殿などに、その一部を見ることができる。』


1875年 - マティアス・エルツベルガー、ドイツの政治家・財務大臣(+ 1921年)

『マティアス・エルツベルガー(Matthias Erzberger, 1875年9月20日‐1921年8月26日)は、ドイツの政治家(中央党)、作家。第一次世界大戦の休戦条約にドイツ代表として調印。ヴァイマル共和国初期に財務相を務めるが、右翼テロ組織に暗殺された。』


1876年 - ヴィクトル・シェストレム、スウェーデンの映画監督・脚本家(+ 1960年)

『ヴィクトル・シェストレム(Victor Sjöström、1879年9月20日 - 1960年1月3日)は、スウェーデンの映画監督、脚本家。彼がアメリカ時代に監督した作品では、ヴィクター・シーストラム(Victor Seastrom)の名前でクレジットされている。創成期のスウェーデン映画界やハリウッドで映画監督として活躍したことから、「スウェーデン映画の父」と呼ばれる。監督業の傍ら、映画俳優としても独特の存在感を示した。特にイングマール・ベルイマン監督の『野いちご』における演技が有名。【「野いちご」と最晩年】:1957年にシェストレムは、彼を敬愛する映画監督イングマール・ベルイマンの要請を受けて、ベルイマン監督作品の『野いちご』で主人公である老イサク教授を演じることになる。当時のシェストレムは78歳と高齢で健康に優れず、撮影中に台詞を忘れることもしばしばだった。撮影監督のグンナール・フィッシェルによれば、屋外での撮影が予定されていた幾つかのシーンが、シェストレムの健康を考慮して屋内での撮影に変更されたという。また、撮影中のシェストレムは非常に気難しく、監督であるベルイマンの演出に不平をこぼすことも少なくなかった。撮影時には多くの困難が伴ったものの、完成後『野いちご』は批評家たちから絶賛を浴びた。特に主人公役であるシェストレムの演技は素晴らしく、監督のベルイマンが後に、『野いちご』は彼自身の映画ではなく、シェストレムのものだと語るほどであった[8]。シェストレムは本作品で、ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞とナショナル・ボード・オブ・レビュー賞主演男優賞を受賞した。しかし撮影の激務のためか、シェストレムの健康状況は著しく悪化し、映画の公開とほぼ時を同じくして心臓病で入院することになってしまう。一度は退院したものの、1959年12月に再入院を余儀なくされたシェストレムは、その三週間後の1960年1月3日に80歳で死去。シェストレムの遺体は、数多くの著名人が眠っていることで知られるストックホルム郊外の「北の墓地」(原語:Norra begravningsplatsen)に埋葬された。』


1878年 - アプトン・シンクレア、アメリカの小説家(+ 1968年)

『アプトン・シンクレア(Upton Sinclair, 1878年9月20日 - 1968年11月25日)は、アメリカ合衆国の小説家。多くのジャンルでの題材を社会主義者の視点から著し、相当の人気を得た。1906年に出版した『ジャングル』The Jungle によって、アメリカ精肉産業での実態を告発し、食肉検査法の可決に至った。【家族】:彼の両親は南部上流階級の出で、父方の家族はアメリカ独立戦争から至る海軍軍人としての伝統を持っていた。曾祖父はアーサー・シンクレア准将(1831年没)で、米英戦争で功績を挙げた。祖父のアーサー・シンクレア大佐は初めアメリカ海軍に勤務し、南部連盟軍に入隊するためアメリカ海軍を退役した。』


1886年 - ツェツィーリエ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン、ドイツ皇太子妃(+ 1954年)

『ツェツィーリエ・アウグステ・マリー・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン(Cecilie Auguste Marie von Mecklenburg-Schwerin, 1886年9月20日 - 1954年5月6日)は、ドイツ帝国の元皇太子ヴィルヘルムの妃。メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世と妃アナスタシア・ミハイロヴナの次女として、シュヴェリーンで生まれた。姉はデンマーク王妃アレクサンドリーネ、兄はメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世。1905年6月6日、ベルリンでヴィルヘルムと結婚。ドイツ皇太子妃、プロイセン王太子妃となった。6子をもうけた。』


1887年 - 黒田重太郎、画家(+ 1970年)

『黒田重太郎(明治20年:1887年 - 昭和45年:1970年)は、滋賀県大津市生まれ。【代表作】:「港の女」(東京国立近代美術館)。「渚に座せる女」(京都市美術館)。「滝」など。』


1890年 - 大野伴睦、政治家、第42・43代衆議院議長(+ 1964年)

『大野 伴睦(おおの ばんぼく、1890年9月20日 - 1964年5月29日)、は日本の政治家。典型的な党人政治家で初代自由民主党副総裁。【人物概要】:岐阜県山県郡美山町(現・山県市)出身。大野直太郎の三男。明治大学政治経済学部中退。立憲政友会の院外団に入り東京市会議員を経て中央政界に入った。衆議院議員選挙に通算13回当選して、北海道開発庁長官、衆議院議長や自民党副総裁を歴任した。没後従二位勲一等旭日桐花大綬章。運輸大臣・労働大臣を務めた大野明は伴睦の四男。また、大野つや子前参議院議員は明の妻で伴睦の嫁にあたる。岐阜県議会議員の大野泰正は明・つや子夫妻の次男で伴睦の孫。【逸話】:力道山を可愛がり、プロレスのコミッショナーを務めていたことでも知られている。力道山も大野を非常によく慕っており、大野から「酒を控えろ」と言われた際には(粗暴な性格だった本人も)素直に控えたという。』


1893年 - ハンス・シャロウン、ドイツの建築家(+ 1972年)

『ベルンハルト・ハンス・ヘンリー・シャロウン(Bernhard Hans Henry Scharoun, 1893年9月20日 - 1972年11月25日)はドイツの建築家。ベルリン・フィルハーモニー(コンサートホール)、シュミンケ邸(Haus Schminke)などの作品で知られる。【出自】:1919年、ブルーノ・タウトらの表現主義建築家グループの往復書簡、「ガラスの鎖(Glaserne Kette)」に参加。1926年、「デル・リンク(Der Ring)」と呼ばれる建築家の団体に加わる。1927年、シュトゥットガルトに建てられた集合住宅、ヴァイセンホーフ・ジートルンクの設計に、近代建築の巨匠と呼ばれるル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエ、グロピウスらとともに参加。1920年代の終わりには、ベルリンのジーメンスシュタットに建てられた広大な集合住宅の設計を行っている。有機的建築を主唱したことで知られるフーゴー・ヘーリングの著書はシャロウンに大きな影響を与え、合理主義というあらかじめ定式化されたスキームから離れて、個々のケースにおける独自の機能的特徴から建築設計を発展させていく方法へと傾斜していく。。。』


1899年 - レオ・シュトラウス、ドイツ出身の政治哲学者(+ 1973年)

『レオ・シュトラウス(Leo Strauss、レーオ・シュトラウス、リーオ・ストラウス、1899年9月20日 - 1973年10月18日)は、ドイツ生まれでアメリカで活躍した政治哲学者、政治学者。【来歴】:ハイデッガー、タルムード(ユダヤ教の正典)、イスラム哲学、スピノザなどの哲学を取り入れ、独自の哲学体系を構築。彼の門下生によって「シュトラウス学派」が形成された。その講義では、プラトンをはじめとして、マキャベリ、ニーチェらの古典テクストが用いられた。アリストテレスの影響からカール・ポパーと同じくプラトンの国家論には断固反対したが、プラトンは認識論として読むべきとし、大衆を統一するには外部の脅威を用意したり、宗教を用いてもよいという「高貴な嘘」Noble liesを唱えた。ただし、彼個人は、マルクス主義やナチズムを「残酷なニヒリズム」として斥け、その台頭を許したワイマール政権も批判した。』


【PS.多くは語りませんが、ここだけの話、理解が遅く、読むのも極端に遅いんです。。。え、知ってた?ノ(≧p≦)ヽしかも風邪じゃないと思うけど、クシャミがひどくて、はだびどぅがぁーーー(汗)おや、下記を見るとローゼンメ○デンさんがいるじゃないですかっ。。。ああ!神よ!頭を働かせたまえ(;-人-)ノそんなささやかなエピソードを添えて、モットウは「少ない情報でまずはお試し3ヶ月!(汗)」また明日ぅ~♪;】


1905年 - 杉本健吉、画家(+ 2004年)

1906年 - 石塚友二、俳人・小説家・編集者(+ 1986年)

1910年 - 田中龍夫、政治家(+ 1998年)

1914年 - ケネス・モア、イギリスの俳優(+ 1982年)

1917年 - レッド・アワーバック、アメリカのバスケットボール指導者(+ 2006年)

1917年 - フェルナンド・レイ、スペインの俳優(+ 1994年)

1919年 - 白木義一郎、元プロ野球選手(+ 2004年)

1922年 - ウィリアム・カペル、アメリカのピアニスト(+ 1953年)

1923年 - 根上淳、俳優(+ 2005年)

1925年 - ラーマ8世、タイ・チャクリー王朝第8代国王(+ 1946年)

1932年 - 中村宏、画家

1934年 - ソフィア・ローレン、イタリアの女優

1934年 - 末吉興一、政治家・元北九州市長

1937年 - モニカ・ゼタールンド、スウェーデンの歌手、女優(+ 2005年)

1937年 - 山本文男、元プロ野球選手、審判

1938年 - 守屋浩、歌手

1939年 - ピーター・ラドフォード、イギリスの元陸上競技選手

1940年 - 麻生太郎、政治家、第92代内閣総理大臣

1943年 - 大島正太郎、外交官

1943年 - サニ・アバチャ、ナイジェリアの軍人・政治家・第10代大統領(+ 1998年)

1944年 - 村井国夫、俳優

1945年 - 范徐麗泰(リタ・ファン)、香港の政治家

1947年 - 小田和正、アーティスト

1948年 - 南城竜也、元俳優

1948年 - 新居千秋、建築家

1951年 - ハビエル・マリアス、スペインの翻訳家・作家

1952年 - 五十嵐淳子、女優

1957年 - 福原峰夫、元プロ野球選手

1958年 - ミヤコ(非常階段)、漫才師(+1996年)

1959年 - 石川ひとみ、歌手

1960年 - 玉井たけし、漫画家(+ 2004年)

1960年 - アリス・ブラウン、アメリカの元陸上競技選手

1961年 - 山口美江、実業家・元タレント

1962年 - 山本譲司、政治家

1964年 - 中田宏、政治家・元横浜市長

1964年 - 張曼玉(マギー・チャン)、香港の女優

1964年 - 金子一馬、イラストレーター

1965年 - 渡辺勝也、監督、演出家

1966年 - 口笛太郎、口笛奏者

1966年 - ヌーノ・ベッテンコート、アメリカのミュージシャン

1967年 - 高橋真美、タレント(元わらべ)

1967年 - 麻乃佳世、女優・元宝塚トップ娘役

1969年 - 工藤めぐみ、元女子プロレスラー

1969年 - 野辺剛正、シンガーソングライター、ミュージシャン

1971年 - ヘンリク・ラーション、スウェーデンのサッカー選手

1971年 - 有田洋之、声優

1971年 - 浜渦正志、ゲーム音楽作曲家

1972年 - 遠藤政隆、元プロ野球選手

1972年 - 鈴木砂羽、女優

1974年 - 新藤晴一(ポルノグラフィティ)、ミュージシャン

1975年 - ファン・パブロ・モントーヤ、コロンビア出身のF1レーサー

1975年 - アーシア・アルジェント、イタリアの女優

1976年 - 寺田学、政治家

1976年 - 一青窈、歌手

1976年 - 倉橋ヨエコ、元歌手

1976年 - 堀江由衣、声優

1976年 - 鈴木貴男、テニス選手

1976年 - 徳元敏、元プロ野球選手

1977年 - 安室奈美恵、歌手

1977年 - 藤原一裕(ライセンス)、お笑い芸人

1977年 - 西沢広香、声優

1977年 - 今井裕介、競輪選手

1977年 - 永瀬知恵、パーソナリティ

1977年 - 橋龍吾、俳優

1977年 - ラディシャ・イリッチ、ユーゴスラビア出身のサッカー選手

1977年 - エルキン・ムリージョ、コロンビア出身のサッカー選手

1978年 - 若林正恭、お笑い芸人(オードリー)

1978年 - 滝本竜彦、小説家

1980年 - 入野久彦、元プロ野球選手

1980年 - 高山香織、アナウンサー

1981年 - 田勢邦史、卓球選手

1983年 - 杏さゆり、女優

1983年 - 磯貝サイモン、アーティスト

1983年 - 伊藤由奈、歌手

1984年 - 高野和馬、騎手

1984年 - ブライアン・ジュベール、フランスのフィギュアスケート選手

1985年 - 山崎真実、タレント

1985年 - 西舘さをり、タレント

1985年 - アルバン・プレオベール、フランスのフィギュアスケート選手

1986年 - 良川剛浩、野球選手

1986年 - ディエゴ・マラドーナ・ジュニア、イタリア出身のサッカー選手

1987年 - 小林美佳、ローカルアイドル(サンフラワー)

1988年 - 大本彩乃、歌手(Perfume)

1988年 - 佐藤ありさ、ファッションモデル

1989年 - 千代田唯、タレント

1991年 - 松川尚瑠輝、俳優

1992年 - 泉明日香、グラビアアイドル

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Posted by 渡瀬側治 at 2010/09/20 23:08 | Top▲
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