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9月12日の誕生花は「クレマチス」で花ことばは「心の美(The beauty of the heart)」。


キンポウゲ科でアメリカが原産国。



日本名は「鉄線」。クレマチスのつるの、強く、粘りのあるところから、この名がつきました。ヨーロッパでは、何かにからみついて成長する性質から、「愛」とも呼ばれています。また、涼しい日陰を提供するので「乙女の木陰の休憩所」「旅人の喜び」などの名前もあります。他には「悪魔の髪型」「老人のひげ」など変わった別名を持っています。



乞食がわざと体に傷をつけ、そこにすりこむのがクレマチスの葉。治すためではありませんよ。醜くただれたできものを作り、そのみすぼらしさで、憐れみを得ようとしたのです。だから「乞食の植物」との名もあります。





誕生花は「クレマチス(Clematis)」。

花ことばは「心の美(The beauty of the heart)」。


【9月12日の花占いは?】



赤ちゃんのように純粋な愛情を持つあなた。両親のようにあなたを包んでくれる恋人を探しています。気まぐれや、策をろうする相手には、不安や恐怖を覚える人。あなたの無垢な心に惹かれ、言いよる人が多いはず。自分自身の安全基準を信じてください。つい、うまい言葉にのせられて、「この人でも」と妥協すると、大変な目にあいます★




【9月12日生まれの著名人は?】



1737年 - リチャード・バチェ、第2代アメリカ合衆国郵政長官(+ 1811年)

『アメリカ合衆国の商人、政治家。1776年から1782年まで第2代郵政長官を務めた。1737年9月12日、バチェはイングランドのセトルにおいて、ウィリアム・バチェ (William Bache) とメアリー・ブレチンデン (Mary Blechydem) の次男として生まれた。バチェは1765年にニューヨークに渡り、長兄のセオフィラクト・バチェが営む商取引業に参加した。バチェは間もなくペンシルベニア植民地のフィラデルフィアへ移り、商社の所有者となった。バチェの商社は西インド諸島との交易により大きく成長した。バチェは1775年から1776年まで郵政長官ベンジャミン・フランクリンの下で郵便公社の会計監査官を務めた。そして1776年にフランクリンの後任として郵政長官に就任し、1782年まで同職を務めた。バチェはまた戦争委員会にも参加した。』


1829年 - アンゼルム・フォイエルバッハ、画家(+ 1880年)

『ドイツの画家。フォイエルバッハは、シュパイヤー(※ ドイツの都市。ラインラント=プファルツ州に属する。)で著名な考古学者の子として生まれた。デュッセルドルフとミュンヘンの芸術学校で学んだ後、彼はアントウェルペン、そしてパリへ行った。1852年、最初の傑作泉のハーフィスを描いた。直後に彼はカールスルーエ、ヴェネツィア、ローマで働き、ウィーンでは作曲家ヨハネス・ブラームスと親交を深めた。彼は古典の知識にどっぷりとつかり、彼の人物構成は彫像のように優美な気高さと、古代ギリシャ芸術の簡素さを持ち合わせていた。ウィーンで催された、彼の『タイタンの凋落』の絵の披露会で幻滅し、彼はヴェネツィアへ移住し1880年にそこで没した。ブラームスはその死を悼み、シラーの詩に基づく「哀悼の歌」作品82を作曲している。彼の作品はドイツの主要な公立美術館で見ることができる。シュトゥットガルトにはイピゲネイア、カールスルーエにはラヴェンナのダンテ、ミュンヘンにはメディア、ベルリンには最後の絵画音楽会がある。』


1858年 - フェルナン・クノップフ、画家(+ 1921年)

『ベルギーの画家。ベルギー象徴派の代表的な人物。ベルギー生まれ。父は裁判所判事であった。初めは法律を学んだが、画家を志し、フランスなどで学んだ。ベルギーの新進芸術家のグループ、レ・ヴァン(20人会)に参加。肖像画で名声を博した。イギリスに行きラファエル前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらと交遊した。またウィーン分離派展にも出展した。』


1875年 - 尾上松之助、俳優(+ 1926年)

『明治時代から大正時代にかけての日本の映画俳優、日本最初の映画スター、監督である。本名は中村鶴三(なかむら かくぞう)。1909年(明治42年)、横田商会制作・牧野監督の『碁盤忠信』(ごばんただのぶ)に主演し映画デビューを果たした。目を見開き見得を切る演技で「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれた。生涯に横田商会(のち合併により日活)が制作した1,000本以上の時代劇映画に出演した。日本映画草創期に活躍した邦画第1号の映画大スターであった。また俳優業の傍ら制作、監督も務めた。慈善事業も行い、貧しい人たちのためにポケットマネーで長屋を京都市内に建てた。松之助は晩年日活の重役となるが、歌舞伎の英雄豪傑を舞台そのままに演じた古風な映画づくりはアメリカからの本格的な活劇やその影響を受けた阪東妻三郎の映画などに押されはじめた。1925年(大正14年)の主演1000本記念大作の『荒木又右衛門』はそのような状況で製作され、従来の歌舞伎調の立ちまわりを脱しリアルな殺陣を演じ大ヒットして気を吐いた。』


1887年 - 銭玄同、言語文字改革家・文字音韻学学者(+ 1939年)

『光緒(こうしょ)13年7月25日生まれ。明治39年(1906)来日し,早大を卒業。魯迅(ろじん)らと章炳麟(しょう-へいりん)に師事し,中国革命同盟会にもくわわる。1914年以降北京大,北京師範大教授。1917-1920年「新青年」同人として文学革命を推進。また国語ローマ字化による文字改革を提唱。』


1894年 - 徳田球一、政治家、日本共産党書記長(+ 1953年)

『日本の政治運動家、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代より戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。「獄中18年」という経歴から共産党支持者から英雄視され、親しみやすい人柄で「徳球(とっきゅう)」のニックネームがあった一方、党内で「オヤジ」「徳田天皇」と呼ばれるような家父長的(親分子分的)指導体制であったという批判もある。特に、文化運動では、娘婿の西沢隆二の方針を支持し、〈ダンス至上主義〉といわれるほど社交ダンスを運動のなかにもちこんだ(その実態は徳永直の小説、『静かなる山々』にも描かれている)。また、宮本百合子は、1949年に、小説家を軽んじる徳田の方針に対する意見書を提出している。吉田茂とは政治的立場において全く相容れないものがあったが、意外にも人間的にはウマが合う間柄だったようである。吉田茂は晩年、随筆「大磯の松」で 「共産党の徳田球一君は、議会で私を攻撃する時はまことに激しい口調であるが、非常にカラッとした人で、個人的には好きな型の人であった。敵ながら、愉快な人物であった」と述べている。吉田茂は終戦時40日ほど獄中にあったが、その経験から18年獄中にあった徳田にある種の敬意を抱いていたとも言われている。』


1898年 - ベン・シャーン、画家(+ 1969年)

『リトアニア生まれのアメリカの画家。ユダヤ系リトアニア人。20世紀アメリカを代表する画家であるシャーンは、1898年、リトアニア(当時は帝政ロシア領)のカウナスに貧しい木彫職人の子として生まれた。父はヨシュア・ヘッセル Joshua Hessel、母はギッテル・リーベルマン=シャーン Gittel Lieberman-Shahn で、両親ともユダヤ人だった。1906年、7歳のとき、移民としてアメリカに渡る。ニューヨークのブルックリンに住み、石版画職人として生計を立てていたシャーンは、肉体労働者、失業者など、アメリカ社会の底辺にいる人々と身近に接し、彼らに共感をもっていた。シャーンが社会派リアリズムの画家として、戦争、貧困、差別などのテーマを扱い続けたのも、こうした経歴と関係があろう。1954年の核実験で被爆した第五福竜丸をテーマにしたシリーズ、フランスのドレフュス事件をテーマにしたシリーズなどが知られている。壁画、ポスター、挿絵、写真など、グラフィックアートのあらゆる分野に手を染めている。晩年には詩人リルケの『マルテの手記』をテーマにした石版画連作を残している。』


1913年 - 豊田英二、トヨタ自動車第5代社長

『日本の実業家。勲等は勲一等。トヨタ自動車株式会社最高顧問。豊田佐吉の甥。トヨタ自動車工業株式会社社長(第5代)、トヨタ自動車株式会社会長(初代)、社団法人日本自動車工業会会長(第2代)、財団法人トヨタ財団理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事長(初代)、学校法人トヨタ東京整備学園理事長(初代)などを歴任した。1994年に米国自動車殿堂入り(日本人としては本田宗一郎に次ぐ)、翌1995年にはイギリス機械学会からジェームズ・ワット国際金賞を受賞した。1999年にはアメリカの週刊誌「タイム」で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の一人に選ばれた(日本人で他に選ばれたのは昭和天皇・盛田昭夫・黒澤明・三宅一生・井上大佑)。』


1913年 - ジェシー・オーエンス、陸上選手(+ 1980年)

『アメリカ合衆国の陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック男子短距離・跳躍種目のそれぞれに優勝し4冠を達成した事で知られる。オーエンスは1935年5月25日に、わずか45分の間に5つの世界記録と1つの世界タイ記録を樹立し陸上競技の歴史にその名を轟かせる。このうち、走幅跳で記録した8m13の記録は1960年にラルフ・ボストンに破られるまで25年間世界記録として輝き続けた。』


1920年 - 後藤喜八郎、武蔵野市第2代市長(+ 2007年)

『日本の政治家、旧・日本社会党所属の元武蔵野市市議会議員・副議長、第2代武蔵野市市長。1960~1970年代にかけて日本各地に多く誕生した革新系首長の一人である。』


1921年 - スタニスワフ・レム、作家(+ 2006年)

『武蔵野市長に就任後は「市民自治」と「平和な緑と教育のまち」をスローガンに掲げ、1964年(昭和39年)、当時近代都市として大きく変貌を遂げていた国鉄・京王帝都井の頭線吉祥寺駅周辺の都市計画を決定する。まず1965年(昭和40年)より国鉄中央線荻窪~三鷹間の高架複々線化に着手。1969年(昭和44年)4月に完成させ、また12月3日には吉祥寺駅北口に駅ビル「ロンロン」を開業。翌1970年(昭和45年)11月には駅南口にターミナルエコー(のちのユザワヤ吉祥寺店)を開業。さらに翌1971年(昭和46年)には吉祥寺大通りが完成(1977年(昭和52年)全面開通)し、またFFビル(伊勢丹吉祥寺店。翌1972年(昭和47年)全館完成)やアーケード商店街「サンロード」をオープンさせる。また1974年(昭和49年)にはアーケード商店街「ダイヤ街東急チェリーナード」、近鉄百貨店(2001年(平成13年)閉店。現:ヨドバシ吉祥寺)、そして旧吉祥寺名店会館跡に東急百貨店吉祥寺店、と次々開業させる。その後市長が藤元政信→土屋正忠と交代した後も、吉祥寺は多摩地区最大の商業区として拡大、成長、発展を遂げている。また、後藤が市議会議員時代に「税金の二重取り」と批判してきた「下水道受益者負担制度」についても、市長就任後、隣接する三鷹市の導入例を見て、制度に効果があるとして自らの主張を変更し、この制度を1970年(昭和45年)より実施、下水道事業を大幅に進捗させ、土屋市政時代の1985年(昭和60年)には市全域に下水道事業が完成した。さらに、当時は都市化が大きく進行しており、緑の減少も進み、当時急増するマンションによる日照侵害等の苦情が市に大きく寄せられ、全国初の中高層マンション規制として「宅地開発等に関する指導要綱」を制定。しかし、住民から要綱の運用を巡って訴訟を起こされ、後藤が水道法違反で刑事告訴される事態となった。この問題は1989年(平成元年)に決着し、建築基準法が改正されるきっかけとなった。また、都市化の代償として減少する緑を取り戻そうと、緑化市民委員会を発足。緑化推進本部の設置、「緑の憲章」制定等の対策に当たった。このほかにも、武蔵境駅南口の開発や市内小中学校の完全鉄筋化、グリーンパークの整備公園化(のちに武蔵野中央公園となる)、富山県利賀村との姉妹都市盟約による「第2のふるさと」づくりなどにも大きく取り組んだ。福祉関係でも、児童扶養手当や介護人派遣事業を全国で最初に取り入れるなど、大いに努力した。』


1930年 - カラベリ、指揮者

『フランス・パリ生まれの指揮者。「ジェット・ストリーム(ロワールの星)」 … TOKYO FM・JFN系『JET STREAM』の放送2000回を記念して、エンディングテーマとして作曲。ほか「雪のオリンピア」「愛をもう一度〜レット・ミー・トライ・アゲイン」など。』↓アニメだと昭和の名作銀河鉄道999とか歌謡曲で流れそうな感じのメロディーですよね♪~




Caravelli-La Nave Del Olvido



1932年 - 岡田豊、プロ野球選手・プロ野球審判

『県立尼崎工業から近畿大学を経て1956年に阪急ブレーブスに捕手として入団、1961年まで現役をつとめる。現役時代の通算成績は実働5年で112試合に出場し、178打数36安打の.202、0本塁打、10打点である。その後パ・リーグ審判部に入局し、パ・リーグ初の3000試合出場を達成し、1993年までつとめた。審判員袖番号は3(1977年初採用から1993年引退まで、3は2003年以降橋本信治がつけている。)。日本シリーズ8回、オールスター4回出場しており、1970年代~1980年代を代表する名審判であった。同じ頃にセ・リーグで活躍した同姓の岡田功元審判員とは高校の1年後輩であり、しかもほぼ同時期に改名していたことがあった。1983年西宮スタジアムでの阪急対日本ハム戦で【マスクを忘れたまま「プレイボール」をコールした事があるが(笑)】。。。同年の日本シリーズ第7戦で「プレーボール」をコールした。』


1939年 - 西尾徳、声優(+ 2005年)

『日本の俳優、声優。岐阜県出身。代表作は『ゲッターロボ』の巴武蔵役、『ドラゴンボール』のミスター・ポポ役などで知られた。1959年に劇団創作劇場に所属。その後、土の会、俳優企画を経て1968年に東京俳優生活協同組合に移籍。豪傑から小心者まで様々なタイプの巨漢役を演じることが多かった。また、『スーパー戦隊シリーズ』や『メタルヒーローシリーズ』などの特撮作品のゲスト怪人ではお馴染みの存在であった。岩佐陽一著書の『ゲッターロボ大全』ではゲッターチームで唯一、口頭でインタビューに答えた(流竜馬役の神谷明と車弁慶役の八奈見乗児はアポが取れず無回答、神隼人役のキートン山田はアンケートでの回答)。西尾自身も自分が演じた数少ないヒーローとして巴武蔵に愛着を持っていた。晩年のインタビューであったが未だにゲッター3の超合金を持ってることや「ゲッター3に乗ったムサシを演じてると自分が強くなった気がするんですよね」とも語っている。「今に比べればムサシの年齢に近かったので素直にムサシに共感出来て演じ易かった」と答えている。「早乙女博士役の富田耕生さんには随分、演技指導もして頂きました」とも語っている。』


1944年 - バリー・ホワイト、音楽プロデューサー・歌手(+ 2003年)

『アメリカの男性シンガーソングライターで音楽プロデューサー。「ラブ・アンリミッテド・オーケストラ」を編成した。豊かなバスの声質で知られ、1970年代に多くのソウル, ファンク, ディスコミュージックを生み出した。彼の関わったアルバムとシングルの総売上枚数は1億枚にも達するという(allmusic)。代表作に「愛のテーマ」(Love's Theme)など。』↓誰もが知ってる名曲の中の一曲♪~




Barry White - Just the way you are



1944年 - ウラディーミル・スピヴァコフ、ヴァイオリニスト・指揮者

『ロシアの指導的なヴァイオリニストおよび指揮者。室内オーケストラの「モスクワ・ヴィルトゥオージ」との活動によって名高い。サティ夫人(Sati)はテレビタレントである。早くから音楽的神童として知られ、13歳のときにモスクワの指揮者コンクールにおいて優勝する。モスクワ音楽院に進みユーリ・ヤンケレヴィチに師事。1979年にシカゴ交響楽団と協演して西側デビューを果たす。同年にモスクワ・ヴィルトゥオージを設立。1984年にレナード・バーンスタインから指揮棒をプレゼントされる。1989年にスペインに移住。1991年にソ連人民芸術家に任命された。1994年にロシアの孤児救済のためにスピヴァコフ慈善基金を設立する。1989年より音楽監督を務めてきたコルマル国際音楽祭への功労が認められ、レジオン・ドヌールを受勲。スピヴァコフは、ヤンケレヴィチ門下の同世代のヴァイオリニストの中では、最も練達の演奏家のひとりであり、モスクワやパリ、ジェノヴァ、モントリオールで開かれる数々のコンクールに入選している。レパートリーは、バッハやベートーヴェン、ブラームスからショスタコーヴィチやシュニトケに至るまで幅広く、協奏曲や室内楽といったジャンルの違いも問わない。現在はロシア・ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督ならびに首席指揮者を兼務している。』↓♪~


<<指揮者のウラディーミル・スピヴァコフ>>




"Виртуозы Москвы" И.Брамс "Венгерский танец"






<<ヴァイオリニストのウラディーミル・スピヴァコフ>>




Vladimir Spivakov & Moscow Vistuosi


1945年 - 藤田弓子、女優

『女優。東京都目黒区生まれ。小学5年からラジオ東京『赤胴鈴之助』に3年間出演。高校卒業後、文学座付属演劇研究所に入る。1967年に『カンガルー』で初舞台。1968年のNHK連続テレビ小説『あしたこそ』ではヒロインを演じた。1973年7月から1975年3月まで、フジテレビ系の人気番組『小川宏ショー』のサブ司会者を務め、朝の顔となる。またNHKの『連想ゲーム』では、女性チームの7代目紅組キャプテンを務めた。『小川宏ショー』を降板した直後には、週刊プレイボーイ誌上で大胆なヌードを披露して世間を驚かせた。のちに平凡パンチ誌上、また『瀬降り物語』『三日月情話』をはじめいくつかの映画やテレビ作品でもヌードを披露している。映画では『新幹線大爆破』、『泥の河』、『瀬降り物語』など多数出演。1985年の映画『さびしんぼう』では、尾美としのりの母親役を演じ、キネマ旬報最優秀助演女優賞を受賞した。1984年に、放送作家の河野洋と結婚。現在は静岡県伊豆の国市で、自然に囲まれた環境での暮らしを楽しむと共に、当地の劇団「いず夢」を主宰している。女優業の傍ら、日本テレビ系列の『遠くへ行きたい』などで、旅番組の案内役としても度々出演している。ほかテレビ、舞台、講演でも活躍中。』


1948年 - 浅尾和信、プロボクサー経験者

『日本の元プロボクサー、現役のプロボクシング・レフェリー(WBAの審判資格を持つ)。北海道出身。北海道滝川工業高等学校時代はバンタム級、道都大学短期大学部の前身の北海道産業短期大学時代はフェザー級のアマチュアボクサーとして全日本レベルで活躍。1969年東京帝拳に入門しプロデビューし東日本バンタム級新人王となるなど活躍。10戦9勝3KO1敗の戦績を残したが肝臓を壊し引退。札幌市内での飲食店勤務を経てプロボクシング界にJBCレフェリーとして復帰。現役時代は大手町の読売新聞社でアルバイト勤務、また大場政夫と共に合宿していた。長男・浅尾雄太は一時期、東京帝拳・マネージャーを務めた。』


1948年 - 岩崎忠義、プロ野球選手

『大分県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。大分・津久見高から1966年ドラフト2位で東京オリオンズ入団。1980年自由契約となり日本ハムに移籍。1981年現役引退。』


1949年 - イリーナ・ロドニナ、フィギュアスケート選手

『イリーナ・コンスタンチーノヴナ・ロドニナ(ロシア語: Ирина Константиновна Роднина、ラテン翻字:Irina Konstantinovna Rodnina、1949年9月12日 - )は、旧ソビエト連邦出身の女性フィギュアスケート選手。ロシア語読みでは「イリーナ・カンスタンチーナヴナ・ラドニーナ」が近い。1972年札幌オリンピック、1976年インスブルックオリンピック、1980年レークプラシッドオリンピックペア金メダリスト。1969-1978年世界フィギュアスケート選手権ペアチャンピオンで、オリンピック3連覇と欧州及び世界選手権10連覇を誇る史上最強の「ペアの女王」。パートナーは夫でもあるアレクサンドル・ザイツェフとアレクセイ・ウラノフ。』


1950年 - 中原勇、プロ野球選手

『鹿児島高校では、2年生の時に一塁手として全国高校野球選手権大会(第49回/1967年)に出場した(初戦で仙台商業高校に完封負けを喫したが、ヒット1本を記録している)。卒業後は、日本鉱業佐賀関に就職し、そこで投手に転向した。1969年のドラフト2位で、東映フライヤーズに指名され、プロ入りを果たす。フライヤーズ(後、ファイターズ)では、左の中継ぎとして活躍した。プロ1年目の1970年には、イースタン・リーグで最優秀防御率のタイトルを獲得している。チームの愛称が変更された1974年には、高橋直樹が「1人で1試合の勝利投手とセーブ投手を独占」という珍記録を残した試合に登板した事もあった。しかし、1975年と翌1976年は故障により登板できず、1977年オフに金銭トレードで阪神タイガースへ移籍。だが、タイガースでは公式戦登板の機会がなく、翌年限りで現役を引退した。シュート、カーブが武器。』


1951年 - バーティ・アハーン、アイルランド首相

『アイルランドの政治家。一般的にはバーティ・アハーン (Bertie Ahern) という名前を用いる。1997年6月26日から2008年5月7日まで同国首相を務めた。アハーンは1977年から、ダブリン・セントラル選挙区でドイル・エアラン議員に選出されている。首相就任以前には、チャールズ・ホーヒー政権やアルバート・レイノルズ政権において労働相(1987年 - 1991年)や財務相(1991年 - 1994年)を務めている。またレイノルズ連立政権崩壊後、短期間ではあるが副首相を務めた。1994年、アハーンはフィアナ・フォイルの第6代党首に選出される。アハーン体制のもとでフィアナ・フォイルは3期にわたる連立政権の首班を務めたが、その首相在任日数はエイモン・デ・ヴァレラに次いで2番目に長いものとなっている。アハーンは2008年5月6日に首相を辞任し、当時財務相だったブライアン・カウエンが後任に就いた。』


1952年 - 堀之紀、声優・俳優

『日本の男性俳優、声優。青二プロダクション所属。東京都世田谷区出身。父は俳優の堀雄二、母は宝塚歌劇団卒業生の甲斐はるみ(29期生、在団 1942年 - 1944年)、弟は声優の堀秀行。演劇集団 円の研究生を経て天知茂に師事。俳優として主に三船プロダクション製作のドラマや映画などに端役で出演した。その後、弟のあとを追うように80年代からは声優として活躍するようになる。強面の役柄や悪役が多いが、愉快な男性役もこなす。日本俳優連合の常務理事を務めている。』


1953年 - 紅萬子、女優

『大阪を中心に活動する女優。芸名は色と数字を入れた名前にしたかったので現在のものになった。。。本名は藪本満子。大阪府立港高等学校、神戸松蔭女子学院短期大学卒業。MC企画所属。1972年に劇団東俳でデビュー。その後も庶民的な役柄を中心に演ずる。現在は「浪花人情紙風船団」を主宰している。また1998年には旭堂小南陵(4代目旭堂南陵)に入門、旭堂南紅の芸名をも持つ。松竹芸能のタレント養成所でも長く講師として指導しており、松嶋尚美や田口万莉が番組内で「萬子さんに養成所の講師として教えてもらった」と話した事がある。『純ちゃんの応援歌』や『まんてん』に出演するにあたり、芸名の読みを「くれない まこ」として出演していた(芸名がNHKの放送にふさわしいといえない[1]という理由があった)。しかし『てるてる家族』では本来の読みで出演した。愛犬は18万7000円で購入したダックスフントの「ベニー」(芸名は「べに」とも読むことから)。また今までに飼った犬の名前は「メリー」→「ロック」→「ピー」→「コロ」である。』


1954年 - 篠塚満由美、タレント

『千葉県出身の作詞家・歌手・ものまねタレントである。大妻女子大学短期大学部卒業。日本テレビ放送網のオーディション番組『スター誕生!』のグランドチャンピオンを経験し1974年芸能界に。当初は「しのづかまゆみ」という平仮名の芸名でデビューし、その後「マミー&オールディーズファミリーバンド」のリーダーを務めた。その後ソロ歌手として活動したが、ヒットに恵まれなかった。その一方で作詞家として活躍し、多数のアイドル歌手に楽曲を提供する。フジテレビ『ものまね王座決定戦』でものまねタレントとして脚光を浴び、松居直美、松本明子、斉藤ルミ子とともに「ものまね女四天王」としてブレーク。1991年には松下桂子とのユニット「しじみとさざえ」(篠塚は「さざえ」=ものまねレパートリーである江利チエミが映画とテレビドラマで扮したサザエさんが由来)を結成し活動した。その後、日本テレビの『ものまねバトル』へ移籍し、活躍した。しかしその後休業宣言し、2009年現在も休業中である。』


1956年 - レスリー・チャン(張國榮)、俳優(+ 2003年)

『レスリー・チャン(張国栄)は、一時代を築いた香港出身でカナダ国籍の映画俳優・歌手。愛称は「哥哥(お兄さん)」。1976年、友人と共にテレビ局主催の歌謡コンテストに出場しAmerican Pieを歌い準優勝。翌1977年から歌手として芸能活動を開始するが、しばらくは下積み生活に甘んじる。また、このころ親しくしていた女性の裏切りにより生活は荒み、金銭的精神的に苦難の日々が続く。1983年に『風継続吹』(山口百恵『さよならの向う側』のカバー)がヒット。1985年には『Monica』(吉川晃司『モニカ』のカバー)が大ヒット。レスリーは一躍トップアイドルに踊り出て、以前からトップアイドルだったアラン・タムとライバル関係に。ファン同士の仲の悪さも有名で、レスリーはアランのファンから執拗な嫌がらせを受けた。その影響もあり、1989年に歌手引退宣言。カナダへ移住する。しかし半年後に帰国、芸能界に俳優として復帰。俳優としては、1982年に譚家明の『烈火青春』に出演し、後のウォン・カーウァイ(王家衛)らニューウェーブに影響を与える。その後はいわゆる「アイドル映画」に出演。そして、1986年に『男たちの挽歌/英雄本色』、1987年には『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー/倩女幽魂』など、数々の大ヒット作に出演。香港映画界の金字塔を打ち立てる。1990年、王家衛の『欲望の翼』で香港アカデミー賞主演男優賞受賞。1993年には中国の陳凱歌の『さらば、わが愛/覇王別姫』に出演、カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞。1997年の王家衛『ブエノスアイレス』は、日本の単館上映記録を塗り替える大ヒットとなる。また、1994年陳可辛の『君さえいれば/金枝玉葉』出演を切っ掛けに楽壇復帰。2000年に開催されたコンサート『PASSION』は、衣装設計をジャン=ポール・ゴルチエに依頼。そのファッション性や斬新で圧倒的なパフォーマンスで大成功する。日本でも大宮・横浜・東京・大阪・名古屋・福岡で開催され、成功を収めた。この年の音楽賞レースでは若手アイドル歌手を蹴散らし6曲同時に新曲がノミネートされるなど、レスリーは歌手として第2の頂点を極める。そして念願だった映画監督になるべく、多くのミュージッククリップやTVドラマ、短編フィルムなどを撮影している。監督デビューは1996年『夢翔る人/色情男女』での劇中ポルノ映画『色情男女』。明言したことはないが、同性愛者であることをにおわせる発言は数多い。日本では、映画「もういちど逢いたくて/星月童話」のヒロイン役で共演した常盤貴子が哀悼のコメントを発表した。2007年12月に東京都立の公園に熱心なファン120人の賛同により「レスリー・チャンの思い出ベンチ」が設置された。ベンチのメッセージには、賛同者120人からのレスリー・チャンへ今も続く思いが込められている。『Leslie Cheung 1956,9,12 私達を魅了し続ける 愛すべき張國榮の 音楽と映画、人生のすべてに 感謝を込めて Leslie Cheung Fans 有志120人』』


1957年 - ハンス・ジマー、作曲家

『ドイツ出身の作曲家。【映画音楽の制作】で知られる。10代でイギリスに渡り、現在は妻スザンヌと4人の子供とともにロサンゼルス在住。ドイツ、フランクフルトで生まれ、10代でイギリス、ロンドンに移住し、学費が高いことでも知られる名門ハートウッドハウス・スクールに通う[3]。キーボードとシンセサイザーの演奏者として、「ラジオ・スターの悲劇」で有名なバグルスなどのバンドと仕事をしていた。(「ラジオ・スターの悲劇」のミュージックビデオで、ジマーの姿を確認できる。)1980年代にイギリスの映画音楽作曲家スタンリー・マイヤーズに師事した後、渡米。1988年の『レインマン』の音楽がアカデミー賞にノミネートされ、一躍脚光を浴びる。1994年の『ライオン・キング』でアカデミー作曲賞を受賞。また、2001年には、『パール・ハーバー』でアカデミー音響賞など2部門を受賞した。 特に『ザ・ロック』の音楽は有名で、今でもテレビ番組やドキュメンタリーで用いられている。 作曲家グループ「リモートコントロール」(旧名:メディアベンチャーズ)を率いる。日本ではフジテレビ系で放送されていた『料理の鉄人』のオープニングシーンのBGMにも使われた、映画『バックドラフト』のテーマ曲が有名。日米両国で大ヒットを記録した『ラストサムライ』のサントラ作曲を手がけたが、これはちょうど彼の100作品目であった。』↓センスがハンパ無いっ♪~




Hans Florian Zimmer-Pirati dei Caraibi (He' s a Pirate)



1957年 - 戸田恵子、声優・女優

『日本の女優、声優、ナレーター、歌手、タレント。愛知県名古屋市千種区出身。駒澤学園女子高等学校卒業。グランパパプロダクション→ルックアップ所属。血液型はO型。以前は神奈川県横浜市に住んでいたが、現在は東京都世田谷区上馬に転居している。母親の勧めで小学校5年生からNHK名古屋放送児童劇団に在籍し、『中学生日記』で女優として出演。歌が好きでフジテレビ『日清ちびっこのどじまん』の東海地区チャンピオンになったこともある。


1974年に上京し、16歳の時にあゆ朱美の芸名でアイドル演歌歌手としてデビュー。しかし歌手としては成功せず、リポーター業などをしていたところを、ある番組で一緒になった野沢那智から声を掛けられた。本人は2005年のインタビューで当時を「バラドルみたいな状態。仕事はありましたが結果は伴っておらず将来は不安だった」と言う趣旨の回想をしている。なお、このアイドル時代、気球からのリポート撮影で墜落事故にあった経験もある。また、さだまさしの『ひとり占い』(グレープ時代の作品である)をレコードで発売しているが、全く売れなかった。


その後、所属していたプロダクションが解散したこともあり、1977年、19歳の時に野沢主宰の「劇団薔薇座」へ研究生として入団。本格的に演技の勉強を始め、ミュージカル『ミュージックマン』で葦原英了賞、主演を演じた『スイートチャリティ』で芸術祭賞演劇部門賞を受賞し、劇団の看板女優として活躍した。退団後の1989年には舞台『渾・身・愛』で第24回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。この薔薇座時代の愛称は「グリコ」。現在でも声優仲間からはこの愛称で呼ばれることが多い。この「グリコ」の由来は、薔薇座入団当初の彼女の「イガグリ頭」から付けられたもので、菓子のグリコとは関係はない。


1979年に実写版『眠れる森の美女』のオーロラ姫役で声優デビュー。アニメ作品は、『無敵鋼人ダイターン3』がデビュー作である。続けて出演した『機動戦士ガンダム』のキャラクター・マチルダ・アジャン役で名を知られるようになった(第41話「光る宇宙」にてララァが散るシーンでは、「いまはおやすみ」が挿入歌として使用された。)。当初は『伝説巨神イデオン』、『子鹿物語』など歌手としての色彩が強い出演作品が多かったが、次第に本格的な声優業にも進出してゆく。『ゲゲゲの鬼太郎(3作目)』の鬼太郎役、『キャッツ♥アイ』の瞳役、『きかんしゃトーマス』(フジテレビ放送版)のトーマス役、そして『それいけ!アンパンマン』のアンパンマン役として子供たちから絶大な人気を受けてそのキャリアは30年を越えている。洋画の吹き替えも多く担当しており、ジュリア・ロバーツ・ジョディ・フォスターの吹き替えや『Xファイル』のスカリー捜査官などでも知られる。現在は女優としての活動が中心であるため、アンパンマン以外での声優としての活動は少ないが、散発的に吹き替えなどに出演している。『機動戦士ガンダム』での共演をきっかけに池田秀一と結婚するが、後に離婚。その後、1990年に俳優の井上純一と再婚するが、2006年12月に離婚。この事実は世間ではほとんど知らされておらず、2007年7月頃の週刊誌にて初めて発覚した。ちなみに、井上とは離婚した後も仲が良いとのこと。1994年、金子修介監督の映画『毎日が夏休み』に出演、実写映画への本格的な出演は初めてであった。1997年には三谷幸喜が脚本を手がけた『総理と呼ばないで』で連続ドラマデビュー。その後、『ラヂオの時間』(日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞)、『HR』に出演し、三谷作品の常連となる。他にも『ちゅらさん』、『ショムニ』、『天才柳沢教授の生活』などに出演。舞台には『オケピ!』、『なにわバタフライ』、薔薇座時代の同僚・岸野幸正率いる「劇団岸野組」の公演などに出演。2006年『歌わせたい男たち』では第13回読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞した。2007年、50歳を記念して歌手として再デビュー。ビクターエンタテインメントより9月5日にアルバム『アクトレス』をリリースし、12月19日には中村中が楽曲提供した「強がり」をシングルカットしてリリース。因みに中村からは恵さんという愛称で呼ばれている。2008年にNHKみんなのうた「昆虫ニンジャ」が4月23日にリリースされた。その後も活躍中ぅ~。』


1957年 - ロード・ウォリアー・ホーク、プロレスラー(+ 2003年)

『アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身(ギミックの上ではイリノイ州シカゴ出身を自称していた)。ロード・ウォリアー・ホーク(Road Warrior Hawk)、日本ではホーク・ウォリアー(Hawk Warrior)のリングネームで知られる。ミネソタ州ミネアポリスで育ち、スコット・ノートンはヘンリー高校の同窓生である。プロレスラーとなった後はロード・ウォリアー・アニマルと組んで、タッグチーム「ロード・ウォリアーズ」(WWF(現・WWE)ではリージョン・オブ・ドゥーム)を結成。彼らは、モホーク族のようなヘアースタイル(モヒカン刈り)、棘つきのショルダーパッドとフェイスペイントで現代風のならず者を演出した。インタビューにおいても、シカゴのワルを意識したマイクパフォーマンスを行っている。彼らの活動は大規模で、日米を股にかけて暴れ回り、全日本プロレスや全米のプロレス団体で数々のタッグタイトルを獲得した。 さらにホークは新日本プロレスで佐々木健介扮するパワー・ウォリアーと共に、タッグチーム「ヘルレイザーズ」を結成し、ここでも大活躍した。2003年10月19日フロリダ州に構えていた自宅で心臓発作に見舞われ死去。彼はもともと心臓に不安を抱えており、あるいはプロレスラー時代に使用していたというステロイド剤や、その他薬物が彼の心臓発作の原因の一つではないかとも言われている。』


1957年 - 石川武、俳優

『埼玉県出身の俳優である。『地球戦隊ファイブマン』のガロア艦長として知られる。近年は舞台中心に活動している。』


1960年 - 羽岡邦男、心理学者

『兵庫県神崎郡市川町出身。東京都立練馬高等学校、神戸学院大学栄養学部を卒業後、大阪市内の広告会社に入社。その後、東京の広告会社に転職した(1997年4月退職)。1997年に北海道医療大学看護福祉学部(臨床心理専攻)3年次に編入学する。卒業後の1999年に明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻(社会学専修)に入学、主に労働者のストレス・メンタルヘルスについて研究を続け、2007年3月に同大学から博士(政治学)の学位を授与される。博士学位請求論文の表題は『労働ストレス評価方法の再構築 (Rebuilding of job stress assessments)』。現在は北里大学医療衛生学部非常勤講師(産業・組織心理学担当)、明治大学政治経済学部兼任講師(現代心理学担当)。【主な研究分野は産業・組織心理学(労働ストレスとメンタルヘルス)、産業精神保健学で、最近では特に「職場うつ病」に関する啓蒙活動や、うつ病患者の職場復帰支援というテーマに取り組んでいる。】』


1963年 - ラリサ・セレズネワ、フィギュアスケート選手

『ラリサ・ユーリイヴナ・セレズネワ(ロシア語: Лариса Юрьевна Селезнева、ラテン翻字: Larisa Yurievna Selezneva、1963年9月12日 - )は、旧ソビエト連邦出身の女性フィギュアスケート選手で現在はコーチ。1984年サラエボオリンピックペア銅メダリスト。パートナーは夫でもあるオレグ・マカロフ。娘はフィギュアスケート選手のクセニヤ・マカロワ。1979-1980年、1980-1981年シーズンの世界ジュニアフィギュアスケート選手権で2連覇を果たす。翌1981-1982年シーズンよりシニアに転向し、1984年のサラエボオリンピックでは銅メダルを獲得した。1987年、1989年ヨーロッパフィギュアスケート選手権で優勝。1988年、2度目のオリンピックとなったカルガリーオリンピックでは、ショートプログラムで6位と大きく出遅れ、フリースケーティングで巻き返したものの総合4位に終わりメダル獲得はならなかった。のちにパートナーでもあるマカロフと結婚。現在はアメリカでコーチとして活動している。』


1965年 - 岡本夏生、タレント

『日本の女性タレントである。1965年(昭和40年)生まれ。静岡県静岡市(現在の静岡市葵区)出身。初めはレースクイーンやグラビアアイドルなどとして活動していた。現在芸能事務所には所属せず、フリーランスとなっている。1998年(平成10年)に『日清カップヌードル レーシングチーム』のレースクイーンを務めた際の同僚であり、後に歌手として人気となった坂井泉水(ZARD)とは親交があった。坂井は2007年(平成19年)に急死、コメントした岡本は、レースクイーン時代に坂井と数名のスタッフと一緒にカラオケボックスに行き、坂井が高橋真梨子の楽曲、「for you…」を歌うのを聞いて、坂井に「こんなにいい歌声だったら、最高の歌手になれるかもね」と言ったエピソードを明かした。著作家の吉田豪は、岡本に手を焼かされたと明かしている。2009年9月18日、「おもいっきりDON!」に出演。同番組のトークで、現在人脈がゼロになったらしい。』


1967年 - 田中美奈子、タレント・女優

『日本の女優、歌手。本名:岡田 美奈子(旧姓:田中)。NPO法人Ever Lasting Friends代表。所属芸能事務所はサイプロダクション。夫は俳優の岡田太郎。』

1985年、八千代松陰高等学校卒業。同校在学中の1984年に「ミスマガジン」の準グランプリを受賞した。その後は1987年に「87イエイエガールズ」を結成して活動した。1989年、カヴァー曲『涙の太陽』で歌手デビュー。超ミニスカートの美脚で「学園祭の女王」と呼ばれた。同時期には自分の瞳に1億円の保険を掛けたことでも話題となった。1999年には、動物愛護団体elfを設立している。同団体は2007年にNPO法人Ever Lasting Friendsとなる。2007年9月12日、同じ町内で15年来家族ぐるみの付き合いをしていたという7歳年下の俳優・岡田太郎と結婚した。2008年4月15日、第1子となる女児を出産。夫の誕生日に合わせて、帝王切開で出産した。2009年12月16日、第2子となる男児を出産した。2010年7月、第22回参議院議員通常選挙で公明党候補の応援に駆けつけた。』


【PS お目目が限界ぃ~(汗)ああ、また全ての著名人のプロフ最後まで見れなかった!けど、知ってる著名人も多いから楽しいなっと♪しかも絵画も見れて音楽に触れる最高のご褒美♪今の心には何よりの薬です♪では、まだまだ著名人がいますのでアップします。自分と生まれた年が違ってもおもしろかね#^^)ノではではぁ~】


1967年 - 高林孝行、野球選手

1968年 - 木田優夫、プロ野球選手

1969年 - 丸山茂樹、プロゴルファー

1969年 - 八塩圭子、フリーアナウンサー

1970年 - 相馬裕子、シンガーソングライター

1971年 - 佐藤祐造、タレント(インスタントジョンソン)

1972年 - ゆっきー、タレント

1974年 - 森慎二、プロ野球選手

1974年 - 鈴村健一、声優、ナレーター

1976年 - 浜島直子、ファッションモデル

1976年 - 光永泰一朗、シンガーソングライター

1978年 - 礒野佑子、NHKアナウンサー

1979年 - 増田裕生、声優

1979年 - 川岸強、プロ野球選手

1979年 - クリス・ベッグ、野球選手

1979年 - 服部整治、俳優

1979年 - 吉浦貴志、野球選手

1980年 - マイサー・イズトゥリス、メジャーリーガー

1980年 - 姚明、バスケットボール選手

1980年 - 白坂聡、騎手

1980年 - ガス・G、ギタリスト

1980年 - マシュー・サボイ、フィギュアスケート選手

1981年 - 葉山恵里、タレント

1981年 - ジェレッド・グズマン、フィギュアスケート選手

1981年 - Noria(白石紀亜)、歌手・作詞家、元BeForUのメンバー

1982年 - 三船美佳、女優

1982年 - 尾崎ナナ、タレント

1982年 - マリア・テレサ・ガウ、タレント

1982年 - 中里篤史、プロ野球選手

1983年 - 福田聡志、プロ野球選手

1984年 - 松本まりか、タレント・女優

1984年 - 横川雄介、プロ野球選手

1984年 - ジョン・ヘイマー、フィギュアスケート選手

1985年 - 水本裕貴、サッカー選手

1986年 - 長友佑都、サッカー選手

1989年 - 小手川宏基、サッカー選手

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Posted by 渡瀬側治 at 2010/09/12 23:10 | Top▲
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