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9月11日の誕生花は「アロエ(Aloe)」で花ことばは「万能(Almighty)」。


ユリ科で南アフリカが原産国です。



南アフリカ、喜望峰原産の多肉植物。私達に一番身近な薬用植物です。家庭によく見かけ、人気は抜群。またアロエといえば色んな薬用効果があると言われていますが、大まかに分けると、1つ目は、葉の緑の皮の汁をしぼって飲むと、便秘に効く。二つ目は、葉の内部のゼリー状の部分は胃腸病や酒毒、神経痛などに効く。三つ目は、このゼリー状の部分を火傷や虫さされなどに塗ると、すぐ治るなど、まだまだ多くの効果が認められています。



1鉢持てば、何かと安心ですね。元気の良い緑は、インテリアとして魅力があります(人によりけりですがっ(^-^#))。





誕生花は「アロエ(Aloe)」。

花ことばは「万能(Almighty)」。

【9月11日の花占いは?】



精神的に落ち込みやすいタイプのあなたですが、苦痛に弱いようでいて、実は強いのです。どん底まで落ちても、必ず立ち上がれるのですから。仕事も愛も人間関係も、最初は上手くいかないけれど、結局自分のものにしてしまう。あなたに必要な事は、迷信に振り回されずに、自分の意思を貫き通す事です☆


【9月11日生まれの著名人は?】



1182年(寿永元年8月12日) - 源頼家、鎌倉幕府第2代将軍(+ 1204年)

『鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男。母は北条政子。父頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられた。合議制成立の3年後に頼家が重病に陥ると、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡する。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。』


1611年 - テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ、フランス大元帥(+ 1675年)

『一人の人間としてのテュレンヌは、飾り気のない性格をわずかにみせる、高潔な兵士で、機知に恵まれていた。しかし政治と知識の世界においては、彼は巧妙な陰謀家や詭弁家の手中にはまってほとんど無力であった。もし彼の道徳観が非難より勝らなければ、彼が生きていた頃は道徳が優勢であるというより、少なくともさらに禁欲的であった。彼は常設軍の司令官として本質的に行動をとった。彼は生涯を軍隊とともに過ごした。彼は兵士たちの信愛を勝ち取る術を知っていた。彼は希に見る寛大さで厳しい訓練を適度に柔和にし、彼の部下たちは司令官としてテュレンヌを崇拝するのと劣らず、同志として彼を愛していた。大コンデの天性がはるかに多才であったけれども、テュレンヌの天性は17世紀の戦術の芸術を最高傑作に仕立てたのである。小さく、犠牲の多い、そして非常に訓練を積んだ常設軍のため、そしてルイ14世時代の王朝戦争のため、テュレンヌは理想的な軍指導者として職務を果たした。』


1719年(享保4年7月27日)- 田沼意次、江戸幕府の側用人・老中(+ 1788年)

『貨幣経済を振興しようと思ったきっかけは、徳川吉宗による政治にあった。吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、税を搾り取ろうとするものであった。それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、この増税路線は9代将軍家重の代には百姓一揆の増発となって現れ、破綻するのである。そして、天領における一揆ではないものの、意次は郡上一揆の裁定を任された事から、農民に対する増税路線の問題を目の当たりにする立場であった。また、米相場の乱高下に頭を悩ます吉宗を身近で見て、田沼は日本に貨幣経済を普及させて問題を解決できないか、と考えたという。田沼の経済政策は、市中に流れる貨幣の流通速度をコントロールして経済を活性化し、そして商人に対する課税によって幕府の財政を健全化させる目的があったとする説が有力である。意次は逆に景気を刺激し、内需を拡大し、その結果利を得た商人に課税しようと考えたのである。そのため、広く人材や献策を取り入れたが、「山師」の跋扈する時代を生むこととなった。そのようなマイナス面を見て、彼の行った諸政策を「金権政治」の一言で切り捨てる向きもあるが、農民に重税を課すような苛政ではなく、民衆を富ませて幕府財政を立て直そうとした側面を無視している。田沼意次の在任中に幕府財政の貨幣収入が増えたことは特筆に価する。』


1825年 - エドゥアルト・ハンスリック、クラシック音楽評論家(+ 1904年)

『【~ハンスリックにまつわる逸話~】①ワーグナーを擁護したリストのピアノ協奏曲第1番に対し、トライアングルが活躍するのをとらえて「トライアングル協奏曲」と揶揄した。②ブルックナーも、ワーグナーを信奉していたために絶えずハンスリックの攻撃にさらされた。たまりかねたブルックナーは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に拝謁する機会があったとき、「陛下、ハンスリックが私の悪口を新聞に書くのをやめさせて下さい」と懇願したという。③チャイコフスキーの音楽に対しても批判的であった。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のウィーン初演を聴いたハンスリックは「臭いを放つ音楽とはこのことだ」と酷評した。④ハンスリックはブラームスの音楽を評価し支持していたが、ブラームスの方は「ハンスリックの書いたものを読むと、実は彼は私の音楽を理解していないのではないかと思ってしまう」という趣旨のコメントを残してもいる。⑤ハンスリックは、ブラームスやブラームスに近いドヴォルザークらを擁護する一方、ワーグナーと、「ワグネリアン」と称されるワーグナーに近いと目された人物には徹底的な批判を加えた。しかし、批判する相手の曲については、初演前に楽譜を入手して予習したり、演奏の途中に退席したように見せかけながら別室で最後まで聴いていたりなど、相当に研究していたようである。現在残されている批評文の指摘には、現在に通用するものも少なくはない。⑥ハンスリックは、マーラーがコンクールに応募したカンカータ『嘆きの歌』を落選させたのだが、マーラーが補筆完成させたウェーバーのオペラ"3人のピント"を聴いた際には、「否定のない器用さと、オーケストラに対する優れたセンス」をマーラーが持っているとし、マーラーの歌曲に対しても「極めて繊細な神経と卓越した技法によって完成されている」と評価している。但し、作曲家ではなく指揮者としての方のマーラーを高く評価していた。⑦ハンスリックは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『死と変容』のウィーン初演を聞いた後(この時点ではシュトラウスはオペラを未だ1つも発表していない)、「シュトラウスの才能のあり方は音楽劇への道を指し示している」と記し、その後のシュトラウスがオペラに傾いて行く事を暗示していたが、実際その通りになった。⑧ハンスリックの母方はユダヤ人の家系だった。しかし、ワーグナーに対する批判を、彼の反ユダヤ主義に対しての単なる反感と受け取られることを嫌ったハンスリックは、自分にはユダヤ人の血は流れていないと虚偽の申し立てをした。』


1854年 - ハインリッヒ・エドムント・ナウマン、地質学者(+ 1927年)

『日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成。またフォッサマグナ(※ 日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目とされる地帯。中央地溝帯とも呼ばれる。)を発見したことや、「ナウマンゾウ」に名を残すことで知られる。1875年(明治8年) - 1885年(明治18年)、明治政府に招へいされ、日本に滞在。東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授に就任。地質調査所(現:独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)の設立に関わり、調査責任者として日本列島の地質調査に従事。調査は本州、四国、九州と広範囲にわたり、距離は10,000kmに及んだと伝えられている。また、当時存在した地形図には等高線が記されておらず、海岸線の輪郭が記される伊能図を基に、地形図の作成と並行して地質調査をするという膨大な作業を成し遂げた。彼は貝塚を2、3発見し、ハインリッヒ・シーボルトの貝塚研究を助けた。関東大震災で東大図書館が焼け落ちたときに、自分の蔵書を寄贈した。彼は、ドイツに帰ってからドイツ東亜博物学民俗学協会で日本の貝塚について講演している。その時在独中の森林太郎(鴎外)がその誤りを正したという逸話もある。』


1862年 - O・ヘンリー、小説家(+ 1910年)

『アメリカの小説家。主に掌編小説、短編小説を得意とし、381編の作品を残した。市民の哀歓を描き出した短編が多く欧米ではサキと並んで短編の名手と呼ばれる。映画化されたものも少なくない。【生涯】1896年、以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑いで起訴された。経営がうまくいっていなかった『The Rolling Stones』紙の運営費に回したと思われたのである。銀行側も周囲も好意的であったにもかかわらず、裁判が行われるオーストン行きの列車から降り、病気の妻と娘を残してニューオリンズへと逃亡した。1897年には、妻の危篤を聞きつけて家にもどった。保釈金をさらに納め、数ヶ月間は妻の看病に徹したが、甲斐なく同年7月25日に先立たれた。1898年2月7日に懲役5年の有罪判決を受ける。この横領の真相については、彼自身が何も語らなかったため、よくわかっていない。服役前から掌編小説を書き始めていたが、この服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版された。刑務所での待遇は良く、獄中で薬剤師として働いていたため、監房ではなく刑務所病院で寝起きし、夜の外出許可まで出されていた。模範囚として減刑され、1901年7月24日には釈放となった。釈放された後、娘と義父母が待つピッツバーグで新しい生活を始めた。『ピッツバーグ・ディスパッチ』紙のフリーランスの記者として働く一方で、作家活動を続けたのである。その後、たった9ヶ月で娘のいるピッツバーグを離れ、1902年にはニューヨークへと単身移り住んだ。当時すでにニューヨークは人口400万人を誇る大都市であり、作家としての売り込みもしやすかったからである。事実、このニューヨークで多くの作品を発表、出版し、中でも『ニューヨーク・ワールド』紙とは毎週1編の作品を掲載するという契約を取り付けている。1904年、処女作『キャベツと王様』が出版され、1906年にも『四百万』が発表された。【ペンネームについて】ペンネームが服役中に決められたことは確かだが、その由来には、いくつかの説がある。(1. 新聞の社交欄にあった平凡な名前ヘンリーに、もっとも呼びやすいOをくっつけた。(2. 可愛がっていた野良猫の名前を呼ぶときの「おーい、ヘンリー」から取った。(3. オハイオ州立刑務所“Ohio Penitentiary”から取った。(4. 刑務所の看守、または逃亡中に出会った強盗Orrin Henryから取った。さまざまな説はあるが、獄中から検閲を経ないで出版社に投稿をしていたことは規約違反であり、それを隠蔽するために一役買ったことは事実である。』


1877年 - ジェームズ・ジーンズ、物理学者・天文学者・数学者(+ 1946年)

『イギリスの物理学者、天文学者、数学者である。黒体輻射に関するレイリー・ジーンズの法則、惑星の起源に関する潮汐起源説などで知られる。ケンブリッジ出身で1904年からアメリカのプリンストン大学の応用数学教授、1910年から1912年までケンブリッジ大学教授、黒体輻射に関する研究などを行う。その後研究の中心は天文学に移る。1923年から1944年までカリフォルニアのウィルソン山天文台などで研究する。1928年にナイトになる。引退後一般向け科学書を執筆した。1905年黒体輻射の波長分布に関するレイリー・ジーンズの法則を発表した。天文学の分野では星間ガスが重力不安定によって収縮することに関する臨界的な値、ジーンズ波長、ジーンズ質量に名前を残している。惑星の起源に関する潮汐説を唱えた一人である。なお、彼の功績を称えて、小惑星(2763)ジーンズが彼の名を取り命名されている。』


1885年 - D・H・ローレンス、小説家(+ 1930年)

『イギリスノッティンガムシャー出身の小説家・詩人。1908年ノッティンガム大学を卒業した後、小学校の教員となり、1911年に小説を出している。1912年から1914年にかけてドイツに渡り、1914年イギリスに帰国後結婚した。『息子と恋人』(1913年)、『虹』(1915年)、『チャタレー夫人の恋人』(1928年)など人間の性と恋愛に関する小説を発表したが、発禁処分を受けたものもある。ローレンスの作品は性を大胆に描写し、また、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を主題としているものが多い[1]。易しくぶっきらぼうな言葉で書かれているのが特徴である。日本では第一次世界大戦後の1920年代頃に注目されはじめ、ローレンスが死んだ1930年代には阿部知二、伊藤整、西脇順三郎らによって広く紹介されるようになった[1]。また、第二次世界大戦後には伊藤整が訳したローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつだとして罪を問われたチャタレー事件が発生している。』


1903年 - 山之口貘、詩人(+ 1963年)

『人生の様々な場面を純朴で澄んだ目線で描いた。『妹へおくる手紙』、『生活の柄』、『自己紹介』、『結婚』、『頭をかかえる宇宙人』、『年越の詩』、『思ひ出』では上京して金に苦労した自己を赤裸々に描いた。『借金を背負って』では借金の返済と借り入れを繰り返す生活を、『告別式』では借金を完済できずに死んだ自分の死後を描く。決して悲惨や陰鬱ではなく寧ろ可笑しみがある詩である。蹴られた猫が宇宙まで飛翔する『猫』、自分が地球に立つのではなく地球が自分に付着する『夜景』等、壮大で愉快な幻想を描いた楽しい詩も書いた。『僕の詩』では、自己の詩の世界は実際の世界よりも大きいと主張している。『思弁』や『雲の上』では戦争や衝突を繰り返す大国の理不尽さを、『鮪に鰯』ではビキニ核実験を描き、『貘』では獏に核兵器廃絶の願いを託した。声高に世界平和や軍縮を叫ぶのではなく、そして皮肉や批判を込めるのではなく、あくまで静かに崇高な思いを込めた詩である。故郷を描いた詩も書いた。『沖縄風景』では軍鶏が飼われていた庭を、『がじまるの木』では大きなガジュマルの木を、『耳と波上風景』では美しい東シナ海を描いた。『不沈母艦沖縄』では沖縄戦で無残に破壊された遠い故郷を想い、『沖縄よどこへ行く』では中国の脅威に脅えた沖縄県の歴史を辿り、アメリカ統治下に置かれた故郷の祖国・日本への復帰を切実に願った。『弾を浴びた島』では久し振りの帰郷で、琉球語が消失した戦後の姿に直面した困惑を描いた。フォーク歌手の高田渡が『生活の柄』『結婚』『鮪に鰯』など、山之口の詩の多くを歌った。また、大工哲弘、石垣勝治、佐渡山豊、嘉手苅林次らのミュージシャンと共に山之口の詩に曲をつけたアルバム『貘-詩人・山之口貘をうたう』を作成した。』


1917年 - フェルディナンド・マルコス、フィリピン元大統領(+ 1989年)

『父親は弁護士にしてイロコス・ノルテ州選出国会議員、母親は教師であった。4人兄弟の2番目で彼の祖先は日本人、フィリピン人、中国人の混血とされる。 1981年1月に予定されるローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のフィリピン訪問を前にして、布告 No. 2045によって、戒厳令は解除された。民主化への期待を抱かせたが、反政府活動に対する治安権力は維持された。同年6月、マルコスは首相職を辞任し、新憲法の下での最初の大統領選挙に立候補した。 主要野党はいずれもこの選挙をボイコットし、信任投票を嫌ったマルコスの圧力により彼が以前属していた国民党だけが候補者を擁立した。この形式的な選挙で、マルコスは投票数の91.4%を獲得した。国内の経済開発では海外からの借款が多用された。また、1973年より開始された観光事業の振興策と、海外に出稼ぎに行くフィリピン人労働者の送金が、重要な外貨獲得の手段であった。マルコス施政下の初期には、経済のパフォーマンスは強かったものの、独裁体制が進むにつれて汚職が蔓延し、経済成長が見られなかった。ペソ経済圏では1人当たりの実質GDPが、1951年から1965年の間に3.5%成長されたとされるが、1966年から1986年間のマルコス施政下では年平均成長は1.4%であった。1983年8月、野党勢力の中心人物でアメリカに亡命していたベニグノ・アキノが帰国時にマニラ空港で暗殺された事は、フィリピン経済に大打撃を与えた。続く国内での反マルコス・デモの頻発に象徴される政治的問題は海外からの観光客や、外資参入を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、政府の振興策も効果が無かった。失業率は1972年の6.30%から1985年には12.55%まで増大した。さらにマルコス政権末期、彼自身の腎臓疾患の為に政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。イメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所建設に象徴される意図的に杜撰なプロジェクト等で汚職を繰り返した。アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス自身が関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に暗殺事件の容疑者として起訴された国軍参謀総長ファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共にこの考えをより強くさせるものだった。1984年までに、事実上の後見人であるロナルド・レーガン米国大統領は、マルコス政権に距離を置き始めた。同盟国からの圧力の結果、マルコスは大統領任期が1年以上残っている状態で、1986年に大統領選挙を行うことを余儀なくされた。野党連合は、ベニグノ・アキノの未亡人、コラソン・アキノを大統領選挙の統一候補とした。1986年2 月7日に行われた大統領選挙では、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録はマルコスが160万票の差で勝利したと発表した。マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、アメリカ政府、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びた。結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防相、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人がマニラの大通りを埋めた。2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した(エドゥサ革命または人民革命)。1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。』


1917年 - 轟夕起子、女優(+ 1967年)

『1931年に京都府立第二高等女学校を中退し、宝塚少女歌劇団に入団。同期に初代・糸井しだれ、服部富子がいる。日本的な美しさが人気を集め、トップスターとなる。1937年、宝塚退団と同時に日活作品『宮本武蔵 地の巻』のお通役で映画デビュー。この背景には東宝の長谷川一夫引き抜きに対する既存4社(松竹、日活、新興キネマ、大都映画)の意趣返しがあったという。『江戸の荒鷲』(1937年)の撮影中に失明騒ぎを起こしたことがきっかけで当時日活の監督だったマキノ正博(当時はこの名前)と出会い、1940年に結婚する。同年・長男正幸誕生。1942年映画統制により、日活の製作部門は大映に統合されるが、彼女は大映には加わらず夫マキノ正博の所属している東宝へ移籍する。1943年、黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』のヒロイン小夜役で人気を集める。同年「ハナ子さん」主題歌、「お使ひは自転車に乗って」がヒットしている。 戦後フリーとなるがマキノとの離婚(1950年)、島耕二との再婚(1953年)、離婚(1965年)を繰り返し、私生活は不遇であった。戦後は肥満し、新しいスターにおされ、次第に脇役に回り、男の紋章シリーズ(1963-1966年)で高橋英樹の母親役などを演じる。1967年5月11日午後5時15分、北多摩郡狛江町(現在の狛江市)の東京慈恵会医科大学附属第三病院で閉塞性黄疸のため死去。49歳の若さであった。』


1929年 - サトウサンペイ、漫画家

『日本の漫画家。大阪府大阪市生まれ。血液型A型。旧制生野中学校(現・大阪府立生野高等学校)、京都工業専門学校(現・京都工芸繊維大学)を卒業し、大丸(現・大丸松坂屋百貨店)に入社。同社の宣伝部に勤めながら、4コマ漫画を描く。1957年には大阪新聞に4コマ漫画『大阪の息子』でプロとしてデビューを果たすと共に、プロの漫画家として独立する。のちに東京に活動の場を移し、1965年から朝日新聞に4コマ漫画『フジ三太郎』を連載、読者の共感を得て、26年半に及ぶ長期連載となった。1966年、同作と『アサカゼ君』で第12回文藝春秋漫画賞を受賞。1991年、都民栄誉賞を受賞。1997年、紫綬褒章。ほかに旭日小綬章など。』


1929年 - 榮久庵憲司、工業デザイナー

『日本の工業デザイナー。東京芸術大学卒。広島国際大学客員教授。東京都生まれ。ハワイ、広島県育ち。両親は広島の出身で僧侶だった父の跡を継ぐため1945年、原爆が投下された8月の終わりに広島市へ入る。実家のお寺は爆心地から500メートルのところにあった。焼け野原に焼けただれた寝台の枠や鉄かぶと、自転車、路面電車が壊れてひっくり返っていた。消えようとしているモノたちの助けてくれと言う叫び、一方で四輪駆動のジープに乗ったGIのポケットには、チューイングガムやチョコレート。モノ不足は辛く、進駐軍がユートピアに見え、壮絶な地獄絵とモノへの憧れが重なった。父の跡を継いで仏門に入ろうとした時期もあったが、この体験が榮久庵をデザインの世界に向わせた。東京芸大在籍中に東京藝術大学教授の小池岩太郎のもとで、友人とともにアルバイトグループGK(Group of Koike)を設立。デザイン会社に発展した。 当時、ビジネスの世界では、デザインという概念・価値はまったく認知されていない時代だったが、地道なプロモーション活動を続ける。1961年、有名な「キッコーマンしょうゆ卓上びん」をデザイン。この年大ヒットし、「しょうゆ=キッコーマン」というブランドを打ち立てるのにも大いに貢献。この商品は、発売開始以来一度もデザインを変えることなくロングセラーを記録、近年は日本国内以上に日本国外でよく売れている。その後は鉄道車両、オートバイ、自転車、冷蔵庫、洗濯機、電話機、印刷機械、ミシン、パソコン、カメラなど多数のデザインを手がけている。日本の工業デザイン界の草分けにして、今日に至るまで日本の第一人者として知られている。』


1933年 - ニコラ・ピエトランジェリ、テニス選手

『イタリアの男子テニス選手。チュニジアの首都・チュニスで生まれる。1959年と1960年の全仏選手権で男子シングルス2連覇を達成し、イタリア人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。1954年から1972年まで男子テニス国別対抗戦・デビスカップのイタリア代表選手を務めたピエトランジェリは、当時のイタリア・スポーツ界を象徴するような存在だった。彼は「ニッキー」(Nicky)という愛称で呼ばれた。ニコラ・ピエトランジェリは1954年からデビスカップのイタリア代表選手となり、現役引退する1972年まで18年間その位置にあった。デ杯代表選手となった翌年、1955年の全仏選手権男子ダブルスで、ピエトランジェリはデ杯のチームメートであるオーランド・シロラ(1928年 - 1995年)と組んで初めての4大大会決勝進出を果たしたが、アメリカのビック・セイシャス&トニー・トラバート組に 1-6, 6-4, 2-6, 4-6 で敗れ、最初の挑戦では準優勝に終わっている。この年、デ杯のイタリア・チームは「ヨーロッパ・ゾーン」決勝でスウェーデンを倒したが、「インターゾーン」決勝でオーストラリア・チームに5戦全敗で敗れた。ピエトランジェリとシロラのペアは、1956年のウィンブルドン選手権でも男子ダブルス準優勝がある。1959年、ニコラ・ピエトランジェリは全仏選手権で男子シングルス・男子ダブルスの単複2冠を獲得し、テニス経歴の全盛期を迎えた。男子シングルス決勝では南アフリカのイアン・フェルマークに 3-6, 6-3, 6-4, 6-1 で勝ち、シロラとのダブルスではオーストラリアのロイ・エマーソン&ニール・フレーザー組を 6-3, 6-2, 14-12 で破って、4年ぶり2度目の決勝進出で初優勝を決めた。こうして、ピエトランジェリはイタリア人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になり、イタリアの国民的英雄として尊敬を集めるようになった。1960年の全仏選手権で、ピエトランジェリは男子シングルス決勝でチリのルイス・アヤラを 3-6, 6-3, 6-4, 4-6, 6-3 で破り、大会2連覇を達成した。この年は、あまり得意ではないウィンブルドン選手権でロッド・レーバーとの準決勝に進出している。デビスカップのイタリア・チームは、1960年に初めての「ワールドグループ」決勝に勝ち上がった。ヨーロッパ・ゾーンを制した後「インターゾーン」決勝でアメリカを3勝2敗で倒したが、ワールドグループ決勝ではオーストラリアに「1勝4敗」で敗れ、デ杯初優勝を逃す。ピエトランジェリはニール・フレーザーに 11-9, 6-3, 1-6, 6-2 で勝ち、チーム唯一の白星を挙げた。ところが、1961年の全仏選手権決勝でピエトランジェリはスペインのマニュエル・サンタナに 6-4, 1-6, 6-3, 0-6, 2-6 で敗れ、大会3連覇を逃してしまう。デ杯でも2年連続のワールドグループ決勝進出を果たしたが、オーストラリアには5戦全敗で終わった。1963年のデビスカップを最後に、ダブルス・パートナーであったオーランド・シロラが現役を引退する。ピエトランジェリとシロラのペアは、デ杯のダブルスでイタリア・チーム最多記録となる「34勝8敗」の戦績を残し、今なおイタリアの「ベスト・ダブルス・チーム」としてデ杯の公式記録に残っている。』


1935年 - アルヴォ・ペルト、作曲家

『エストニア生まれの作曲家である。しばしばミニマリスムの楽派に属する一人とされる。ペルトの音楽教育は7歳より開始され、14、5歳の頃には既に作曲をしていた。タリン音楽院(Tallinn Conservatory)で作曲の勉強をしている彼について、ある級友は次のように語っている:「彼はまったく多作で、袖を振るだけでNote(音符) が落ちてくるようだったよ」。当時、ソヴィエト連邦外部からの影響は皆無に等しく、入手可能な物と言えば精々非合法のテープとスコア程度だった。ペルトの生まれた頃、エストニアは独立共和国として黎明期であったにも関わらず、独ソ不可侵条約のため、1940年にはソヴィエト連邦の勢力下に置かれてしまう。その後、エストニアは54年間ソヴィエト連邦の一部のままにあった。これまでのペルトの作品は、一般的に2つの年代に分けられる。初期の作品群は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチやセルゲイ・プロコフィエフ、ベラ・バルトークの影響下にある厳格な新古典主義の様式から、アルノルト・シェーンベルクの十二音技法やミュジック・セリエルにまで及ぶ。しかしそれはソヴィエト政府の憤怒を買うばかりでなく、独創性の発展において行き止まりである事を示していた。ペルトの伝記作家、ポール・ヒリヤーは次のように書いている。 「意思表示する方法は数多あるけれど、その中で作曲という行為が最も無能で役に立たないという究極的絶望に彼は辿り着いたんだ。音楽に対する信頼も、音符一つ書く力さえも失ったようだったよ。」この記述は些か大げさかも知れない。というのは、この時期には過渡的作品である交響曲第3番が作曲されているからである。しかしながらペルトが深い難局を迎えていたことは明白であった。この袋小路を抜け出す術として、彼は「西洋音楽の根源への実質上の回帰」を見出し古楽に没頭した。単旋聖歌やグレゴリオ聖歌、ルネサンス期における多声音楽の出現などを研究すると同時に、宗教の探究や正教会への入信をも行った。この事実は恐らく、ペルトがその局面を単なる音楽的な問題と受け止めず、自然に対する何か霊的な物が関与していると考えた事を示しているのだろう。この時期以降に出現する音楽は、以前のそれとは根本的に相違するものであった。ペルトはそれをティンティナブリの様式(以下「ティンティナブリ」)と呼んでいる。(ティンティナブリは「鈴声」の意。)この音楽を特徴付ける性質として、簡素な和声がある。非装飾音符や三和音がしばしば用いられ、それらは西洋音楽の根柢を成すものである。この様式は、ティンティナブリという名前の所以である「鈴の鳴るさま」を髣髴させる。ティンティナブリはやはり単純なリズムを持ち、テンポは常に一定を保つ。古楽の影響は明瞭である。同時期の作品におけるもう一つの特徴として、宗教的なテクストが作品中でしばしば用いられるものの、その殆どの場合において、彼の母国語であるエストニア語の代わりにラテン語又はスラヴ系の正教会の奉神礼に使われる教会スラヴ語が用いられている事が挙げられる。ペルトはこのティンティナブリ以降の諸作品によって最もよく知られ、絶大な人気を博している。ペルトは自身の作品について、「プリズムを通過する光によく似ている」と言っている。音楽が含有する意味は、聴取者によって僅かに相異が在るかも知れない。それ故に、音楽体験という「スペクトル」が創造されるのだろう。それは光が織り成す虹によく似ている。』↓ビヨークとの対談がっ♪~




Björk interviews Arvo Pärt



1940年 - ブライアン・デ・パルマ、映画監督

『アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアーク出身の映画監督。『キャリー』『スカーフェイス』『アンタッチャブル』『ミッション:インポッシブル』を手がけた。第19回ベルリン国際映画祭銀熊賞、第64回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞などを受賞。ゴールデンラズベリー賞に5回ノミネート。本名はブライアン・ラッセル・デパルマ(Brian Russell DePalma)[1]。ブライアン・デ・パーマやブライアン・ディ・パーマと表記する事もある。元妻は女優のナンシー・アレン、プロデューサーのゲイル・アン・ハード。義娘は女優・モデルのウィラ・ホランド。アルフレッド・ヒッチコックに強い影響を受けていることで知られ、作品にはをヒッチコック映画を模したシーンが散見される。その他、オーソン・ウェルズ(『Get to Know Your Rabbit』に出演)、ジャン=リュック・ゴダール、ミケランジェロ・アントニオーニ、アンディ・ウォーホル、メイズルス兄弟などにも影響を受けている。分割画面や、長回し、スローモーション、目線アングルなどを使用し凝った画作りを行い、デ・パルマカットと呼ばれる独特な映像が注目され、熱狂的なファンがいることでも有名である。』


1940年 - 西川幾雄、声優

『日本の男性声優。ぷろだくしょんバオバブ所属。愛媛県出身。代表作に『新造人間キャシャーン』のキャシャーン/東鉄也、『忍たま乱太郎』の猪名寺平之助(乱太郎の父ちゃん)、『SAMURAI 7』のギサク、洋画『L.A.ロー 七人の弁護士』のリーランド・マッケンジー、『プリズン・ブレイク』のチャールズ・ウェストモアランドなど。ヒーローから悪役ボス、小市民系キャラと幅広く演じており、若い頃は『紅三四郎』、『新造人間キャシャーン』の様な、繊細さと強さを持つヒーローを好演、近年では小心な人物や穏やかな老人を演じることが多い。趣味が高じて現在は東京都大田区南六郷の水門通り商店街にて、たこ焼き屋を営んでいる。この店は2008年8月2日放送のテレビ番組『出没!アド街ック天国』で紹介され、本人がスタジオに出向いて出演者らにたこ焼きをふるまった。。。最高ぅ♪(笑)』


1945年 - フランツ・ベッケンバウアー、元サッカー選手

『ドイツ(旧西ドイツ)・ミュンヘン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現在のドイツサッカー連盟(DFB)副会長、バイエルン・ミュンヘンクラブ会長、及びバイエルン・ミュンヘン株式会社の監査役長。2006 FIFAワールドカップドイツ大会では組織委員長を務めた。現役時代はリベロ(攻撃に参加するスイーパー)システムを確立させ、世界的な名声を得た人物である。ピッチ上で味方の選手達を操るその威風堂々とした風格と、『神よ、皇帝フランツを守り給え』に詠われたオーストリア皇帝フランツ1世(最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世)と同じファーストネームであることから、der Kaiser(皇帝)と呼ばれた。』


1947年 - 泉ピン子、女優

『東京都中央区出身の女優・漫談家。所属はケィ・サイド。血液型はB型。父は浪曲師の広沢竜造、継母は浪曲師の三門お染。デビュー直後の芸名は三門 マリ子。夫は消化器内科医の武本憲重。1966年、牧伸二に師事して、三門マリ子の芸名で歌謡漫談家としてデビューするも、キャバレー回りが続く。歌謡漫談家のネタの中にはコント55号が作成したものもある。ある日、街角でキャバレーの呼び込みに「うちで働かない?」と声をかけられたが、「はばかりながら、こっちはもっといい商売やってんだよ!」と一蹴した。キャバレーの呼び込みは、「いけね。トルコ嬢に声かけちまった」と言ったという。1975年に日本テレビ系列『テレビ3面記事 ウィークエンダー』の番組レポーターを担当したのを機に、改名し「泉ピン子」となる。この芸名は芸能人であることをずっと反対していた父親が「芸人にはピンからキリまであるのだから、志しの一番なピンの芸人になれ」と、泉に話したことから。(『ダウンタウンDX』 2010年7月22日放送で本人が語ったところによると、顔が丸くて麻雀牌のイーピンみたいだからという理由もある。さらに、泉というのは、「過去に泉という名前で売れた芸能人がいないので、お前で試す」と言われたことから。)その後、女優業に転身する。歌謡曲の歌手としても1977年に「哀恋蝶」が40万枚のヒットを記録している。女優としては1983年にNHKで放送された連続テレビドラマ『おしん』に母親役で出演したことがきっかけで評価を得、また同作の脚本を書いた橋田壽賀子に高く評価されたことにより、以来現在まで橋田ファミリーの旗頭的な存在である。長いセリフにも動じない安定した演技に定評があり、以降は橋田作品のドラマや映画に数多く出演する。橋田とは赤木春恵などと共にプライベートでも一緒に旅行に行くなどの交友がある。バラエティ番組では元コメディエンヌとしての才を活かし、達者なトークで活躍。一方で人気ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)では本来のキャラクターと相反するおとなしい嫁の役を演じている。』


1947年 - 渡辺範彦、ギタリスト(+ 2004年)

『日本のクラシックギタリスト。宮崎県出身。 8歳からギターを始め、21歳の時、パリ国際ギターコンクールで日本人として初めて優勝した。天才肌の演奏家として知られており、自身の録音は少ないが、後進の指導にも積極的であった。』↓♪~




M Ponce Prelude live March 21 1986



1954年 - 佐藤義則、元プロ野球選手、コーチ

『北海道出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。愛称は「ヨシ」。現在は東北楽天ゴールデンイーグルス投手コーチ。1年目の1977年に7勝を挙げて新人王に選出され、日本シリーズにも登板する。2年目の1978年には初めてオールスターゲームに出場し、シーズン13勝を記録したが、日本シリーズではベンチ入りするも故障のため登板がなく、山口高志の故障離脱もあって山田久志や今井雄太郎の負担を増すこととなった。1981年には腰痛のため一軍登板がなく、一時期任意引退扱いとなったが、翌1982年からリリーフ投手として復活。1984年に先発投手に復帰した。1985年に21勝で最多勝利のタイトルを獲得。パ・リーグでの20勝投手は2003年の斉藤和巳(福岡ダイエーホークス)まで現れず、プロ野球界では昭和時代最後の20勝投手でもあった。1986年には最優秀防御率のタイトルを獲得し、1987年、それまで12年連続で開幕投手を務めていた山田久志に代わってプロ入り11年目で初の開幕投手を務めた。しかし、このシーズンはわずか7勝に終わっている。1988年シーズンオフに阪急がオリエント・リース(現オリックス)に営業譲渡した後も星野伸之らとともにオリックス投手陣の中心として、徐々に衰えを見せながらも先発の一角を担った。1993年7月12日に出身地の奥尻島が北海道南西沖地震およびそれに伴う火災と津波によって壊滅的被害を受けた翌日にオールスターに選出され、7月21日の第2戦に登板し2回4奪三振を記録した。1995年には今度は自身の所属するオリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸が阪神大震災に襲われ、一時は試合開催も危ぶまれる大被害を受けた。チームは「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となって結束し、最終的には1984年以来、11年ぶりのリーグ優勝を果たす。佐藤自身も8月26日の近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)でノーヒットノーランを達成(40歳11か月での達成で、当時の最年長記録となった)。ヤクルトスワローズと対戦した日本シリーズでは経験を買われて第1戦に登板したが、敗戦投手となった。翌年パ・リーグ連覇を果たした後の日本シリーズでも登板がないなど、衰えが顕著となり、1998年シーズンを最後に、44歳で現役引退した。落差の大きな独特の変化球は「ヨシボール」と呼ばれた。このボールは、指が短くてフォークボールが投げられない佐藤が「人差し指と中指で挟めないなら親指と人差し指で挟もう」という考えで編み出したものである。』


1954年 - 伊藤秀志、ローカルタレント

『東海地方を中心に活動している歌手・タレント。秋田県由利郡大内町(現 由利本荘市)出身。秋田県立本荘高等学校卒業、中京大学中退。歌手活動の他に、名古屋のCBCラジオを中心としたラジオのディスクジョッキーを務めており、名古屋を代表するタレントの一人である。』↓秋田弁だけどテレビの著名人にみるフランス語のニュアンスだ(不思議っ)♪~




猫 クラリネットをこわしちゃった(伊藤秀志=ズーズーバージョン)



1956年 - 美藤啓文、毎日放送アナウンサー

『毎日放送(MBS)所属のアナウンサー。長野県出身(本籍は兵庫県)。関西学院大学卒業後、1980年に入社、同期には鎌田正明。同局ではMBSラジオでのスポーツ番組の実況を中心に活躍し、春の選抜高校野球やプロ野球中継、競馬中継の実況ではよく絶叫する事で有名。しかし、テレビ放送においての地上波での全国ネットではあまりお目にかかれない(全国放送でもリポーターとして担当する程度)。2010年1月31日放送の自社制作テレビ番組『となりのマエストロ』(TBS系列全国ネット)のコーナー「タカMAX」では実況マエストロとして美藤がVTR出演した。また、同局アナウンサーの田丸一男とは誕生日が同じで、さらに出身大学も同じである。』


1958年 - アニマル・レスリー、元プロ野球選手

『1986年に阪急ブレーブスに入団し、来日。同年は19セーブを挙げ、マウンド上で雄叫びを上げたり、味方捕手の藤田浩雅をボコボコ殴ってスキンシップ(笑)を図るなどの派手なパフォーマンスで人気を得たが、翌1987年は不調で5セーブに終わり、プロ野球選手を引退した。引退後は亜仁丸レスリーとして日本でタレントとして活躍(“亜仁丸”の名付け親は元同僚の福本豊)。ビートたけしのもとでも活躍し、TBSテレビ「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」にレギュラー出演する他、郵便局や日清食品『カップヌードル』(「HUNGRY?」のナレーション)といったCM・映画、テレビ朝日「必殺ワイド・新春 久しぶり!主水、夢の初仕事 悪人チェック!! 」などにも出演した。この縁あってか、たけし軍団の水道橋博士は某番組[要出典]でアニマルを史上最高の外国人助っ人に指名し、討論を繰り広げた。当時日本テレビが、NFL放送の際ゲストとして彼を招いていた事がある。番組中では状況を説明したり、情報を披露したりと解説の役割もこなしていた。現在はロサンゼルス在住。サンフランシスコ・ジャイアンツで少年野球のピッチング・インストラクターをしている。妻は日本人。元同僚の山田久志が後年、サンデードラゴンズ出演時に印象に残る外国人選手を聞かれた際にアニマルの名を挙げていた。山田の話によると抑えで登板しては、いつものようにマウンドでボコボコ殴ってスキンシップをしロッカールームでも暴れ、最終的には球場の風呂場まで止まらなかったという。そのサンデードラゴンズの中で山田自身も「あいつは大変だった」と漏らすほどだった。』


1960年 - 涼風真世、女優・歌手・声優、(元宝塚歌劇団)

『日本の女優、声優、歌手。元宝塚歌劇団・月組トップスター。宮城県石巻市出身。本名:今泉 佳奈女〔いまいずみ かなめ〕(旧姓:森永〔もりなが〕)。愛称は本名のかなめで、個人事務所の名称にもなっている。身長165cm、血液型O型。大阪薫英女子高等学校卒業。プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスファンクラブ名誉会員(会員No.2)。声優としてはアニメ『るろうに剣心』の緋村剣心役として知られる。十條製紙(現:日本製紙)社員の父のもと石巻に出生。家族は他に母・姉。父の転勤に伴い後に北海道釧路市、富山県高岡市、大阪市に移住。高岡市内にすでに家を建てていたので、父と涼風の2人のみ大阪へ転居した。1981年に宝塚歌劇団に入団。OGでは女優の北原遥子(元娘役スター、日本航空123便墜落事故で死去)、黒木瞳(1982年から1985年まで月組娘役トップスター)、真矢みき(1995年から1998年まで花組トップスター)。毬藻えり(1989年から1992年まで星組娘役トップスター)、演劇プロデューサー、活弁士、日本舞踊講師の幸風イレネ(現在のイレネ飯田)。現役では専科の梨花ますみらと同期入団である。「春の踊り」で初舞台。以後、歌唱力に秀でたフェアリータイプの男役スターとして歩み1991年「ベルサイユのばら・オスカル編」で月組トップスターに就任、2年目の1993年7月に「グランド・ホテル」で退団。以後はテレビドラマや舞台、映画などで活躍。歌手としてCDもリリースしている。2004年7月、サントリー社員で元ラグビー日本代表、早稲田大学ラグビー部コーチの今泉清と結婚した。また、本名の姓を“森永”から新郎の“今泉”姓に変更した。宮城県にゆかりのあるということで、“ふるさと宮城” の魅力をPRし、全国に発信する「みやぎ夢大使」に委嘱されている。』


1960年 - 田丸一男、毎日放送アナウンサー

『ホリプロ所属のフリーアナウンサー。東京都出身。聖心女子大学文学部外国語外国文学科卒業後、1986年フジテレビ入社。1989年に三菱商事勤務の商社マンと結婚。その後、1991年よりニューヨーク支局へ2年半の単身赴任を経験。帰国後はゴルフ中継のレポーターを主に務めていたが、1997年に広報部へ異動になったのを機に退社。退社後はフリーアナウンサーとして、自身の一番の趣味でもあるゴルフ関連の番組の司会などを務めている。夫の転勤に伴い、しばらくアメリカ(カリフォルニア→ニューヨーク)に在住していたが、2006年夏に帰国した。局は異なるが、アナウンサー時代の同期である雪野智世(元テレビ朝日アナウンサー)とはゴルフ仲間で親友でもある。。。☆左利きである。』


1963年 - 岩瀬惠子、フリーアナウンサー

『ホリプロ所属のフリーアナウンサー。東京都出身。聖心女子大学文学部外国語外国文学科卒業後、1986年フジテレビ入社。1989年に三菱商事勤務の商社マンと結婚。その後、1991年よりニューヨーク支局へ2年半の単身赴任を経験。帰国後はゴルフ中継のレポーターを主に務めていたが、1997年に広報部へ異動になったのを機に退社。退社後はフリーアナウンサーとして、自身の一番の趣味でもあるゴルフ関連の番組の司会などを務めている。夫の転勤に伴い、しばらくアメリカ(カリフォルニア→ニューヨーク)に在住していたが、2006年夏に帰国した。局は異なるが、アナウンサー時代の同期である雪野智世(元テレビ朝日アナウンサー)とはゴルフ仲間で親友でもある。。。☆左利きである。』


1964年 - ヴィクター・ウッテン、エレクトリックベーシスト

『ジャズ、フュージョンのベーシスト。バージニア州ハンプトン生まれ。高度なテクニックとグルーヴ感あふれる演奏で、ベース奏者の中にも信奉者が多い。ウッテンはいくつかのフュージョン/プログレッシブ・ロックプロジェクトのメンバーとしても活動している。1998年スティーブ・ベイリーとともにベース・エクストリームスを結成、また同年スコット・ヘンダーソン、スティーブ・スミスとともにバイタル・テック・トーンズを結成した。2004年には、グレッグ・ハウ、デニス・チェンバースとともにエクストラクションを結成して活動し、CDを発表している。その他デイブ・マシューズバンド等さまざまなバンドに参加している。2008年にはスタンリー・クラーク、マーカス・ミラーと組み、3人のベーシストのユニット"S.M.V."による企画アルバム、Thunderを発表。このプロジェクトで全国ツアーを行い、来日公演も果たした。最も良く使うベースはフォデラの自身のシグネイチャーモデルである。ウッテンのデザインしたフォデラの「陰陽」ベースもよく使用される。このベースのボディから指板にまで及ぶ太極図模様はペイントではなく、ベース自体を「陰(エボニー)」と「陽(ホリーウッド)」の2片の木を組み合わせて作ってあるものである。ウッテンのスラップ奏法は親指をギターピックのようにアップ・ダウンさせて弦をはじき(サムピング)、さらに人差し指・中指で弦を引っ張る(プラッキング)ことで四連スラップを行う。さらにハーモニクスやタッピング奏法、コード弾きを織り交ぜ、非常に高度な技巧を展開しながらも、ファンク色の強いグルーヴ感あふれるリズムを聞かせる。』↓♪~。。。優し過ぎる音色においらはちとぉー


PS。。。という訳で時間が参りましたm(_ _)mまだまだ超有名著名人がいる訳ですが、もう夜も深け、脳がノ(≧ロ≦)ヽの背景・最後までプロフを見られないというのは、多分神と呼ばれる地球外生命体が最近の著名人を知るにはまだまだ未熟者!ちみが知るにはまだ早すぎるとお言いなのでしょう♪少しずつ精進して最後まで読めるように努力します、カモ#><)ノではまたぁー♪↓↓↓あなたの好きな著名人きっと見つかる!スフとタッチで載せておきますね♪


1965年 - バッシャール・アル=アサド、シリア大統領


1965年 - ポール・ヘイマン、元ECW代表


1966年 - 文仁親王妃紀子、日本の皇族(秋篠宮妃)


1967年 - 相川英明、元プロ野球選手


1968年 - 倉田てつを、俳優


1968年 - 成本年秀、元プロ野球選手


1969年 - エドゥアルド・ペレス、元プロ野球選手


1970年 - 松本尚樹、元プロ野球選手


1971年 - 矢作兼、お笑いタレント(おぎやはぎ)


1971年 - 森山大輔、漫画家


1972年 - 浅野香織、女優


1973年 - 小籔千豊、お笑いタレント・吉本新喜劇座長


1973年 - トム・デイビー、プロ野球選手


1973年 - 林尚克、野球選手


1974年 - 今岡誠、プロ野球選手


1974年 - 虻川美穂子、お笑いタレント(北陽)


1978年 - デヤン・スタンコビッチ、サッカー選手


1978年 - まきのめぐみ、歌手


1978年 - 船津未帆、女優


1979年 - 前田啓介、エレクトリックベーシスト(レミオロメン)


1979年 - 吉田知加、シンガーソングライター


1979年 - アリアナ・リチャーズ、俳優


1981年 - 山本麻里安、声優


1981年 - 駒井亜由美、アナウンサー


1983年 - ジャコビー・エルズベリー、メジャーリーガー


1983年 - ひとりでできるもん、ダンサー


1983年 - 伊藤教人、俳優


1983年 - 谷咲伴美、SDN48


1984年 - 安田章大、歌手(関ジャニ∞)


1985年 - 小暮あき、(レースクイーン・タレント)


1986年 - 佐々木和徳、俳優


1986年 - 中村知世、女優


1986年 - 玉置隆、プロ野球選手


1986年 - カイル・ブランクス、メジャーリーガー


1987年 - 大島麻衣、元AKB48


1987年 - アロルディス・チャップマン、野球選手


1989年 - 倉持明日香、AKB48


1989年 - 二宮悠嘉、SDN48


1997年 - 森迫永依、子役

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Posted by 渡瀬側治 at 2010/09/11 23:59 | Top▲
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