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9月10日の誕生花は「えぞ菊(白)(China Aster)」で花ことばは「信ずる心(Trustworthy heart)」。


キク科で北アメリカ・ヨーロッパが原産国です。



こぼれ落ちた種子から、たやすく育ち、よく繁殖します。野生、栽培を問わず、自由に交雑するため、植物学者は「えぞ菊を分類しようとすると、気が遠くなりそうだ」と絶望してしまうのです。



ミカエル祭は18世紀以降、9月18日となりました。この花の開花時期と一致するので、「ミカエル祭の夜」との別名もあります。





誕生花は「えぞ菊(白)(China Aster)」。

花ことばは「信ずる心(Trustworthy heart)」。


【9月10日の花占いは?】



あなたは快楽思考派ではありません。肉体的欲望に負けることはないのです。お互いの人格を尊重し、慕い、慕われる清らかな恋。今以上に教養を高めて、人に信頼されるよう努力しましょう。きっと素敵な恋人に出会えますよ♪


【9月10日の著名人は?】



1690年(元禄3年8月8日)- 前田吉徳、第6代加賀藩主(+ 1745年)

『享保8年(1723年)、父・綱紀から家督を譲られて第5代藩主に就任する(父は翌年に死去)。吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、足軽の大槻伝蔵を重用して改革を行なった。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇(御三家に準ずる待遇)し、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったため、綱紀の治世末期から吉徳が家督を継いだ頃には、藩財政の動揺は隠せないものとなっていた。そこで大槻主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税をつくるなどの改革が行なわれた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功したと言ってもいいかもしれなかった。この功績によって吉徳の大槻伝蔵に対する信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかし、これに対して、藩内における保守派や門閥層が、改革による質素倹約による制限や成りあがり者に過ぎない大槻に対する嫉妬などで、不満が集まるようになってしまった。延享2年(1745年)、吉徳は56歳で死去し、後を嫡男の前田宗辰が継いだ。大槻伝蔵は吉徳の死の翌年、保守派らによって失脚となった。そして、この吉徳と大槻の改革が、皮肉にも後の加賀騒動の遠因となってしまったのである。』


1882年 - 今井清、陸軍中将、(+1938年)

『愛知県出身。今井惟清の三男として生まれる。名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業、翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第6連隊付となる。1914年11月、陸軍大学校(26期)を優等で卒業した。歩兵第6連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、スウェーデン駐在、デンマーク駐在、陸軍技術本部付(欧州出張)、陸大教官、歩兵第80連隊長、参謀本部演習課長、同作戦課長などを経て、1930年8月、陸軍少将となり歩兵第30旅団長に就任。陸大教官、陸大幹事、参謀本部付などを歴任し、1934年8月、陸軍中将となった。参謀本部第1部長を経て、陸軍省人事局長に在任中、相沢三郎中佐に永田鉄山軍務局長が斬殺され(相沢事件)、後任の軍務局長に就任。陸軍兵器本廠付、第4師団長などを経て、日中戦争勃発時には参謀次長であった。兼陸大校長、参謀本部付を経て、1938年1月、病により死去した。』


1887年 - ジョヴァンニ・グロンキ、第3代イタリア共和国大統領(+ 1978年)

『トスカーナ州ピサ県ポンテデーラ出身。高校教師を勤める傍ら、10代からキリスト教青年運動に参加。第一次世界大戦従軍を経てイタリア人民党の結党に加わり、1919年に代議院議員を務める。ベニート・ムッソリーニ政権下では初期にキリスト教労働組合代表として政権入りしたが、後に下野して1924年に人民党書記長に就任。しかし、1926年に完全に政界を追放され、その後は実業家として活動を続ける。ムッソリーニ政権が倒れると、かつての人民党の幹部と共にキリスト教民主主義の結党に参加。1948年に代議院議長となり、1955年に大統領に選出された。在任中はイタリア共産党やイタリア社会党などの左翼やイタリア社会運動に代表されるネオ・ファシスト、更には王党派が伸張する中で政権運営に腐心し、労働争議や暴動への対処にも追われた。』


1889年 - 吉阪俊蔵、内務官僚(+ 1958年)

『兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市灘区)の造り酒屋に生まれる。京都府立三中、五高を経て、1913年東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、初め農商務省に入り、その後商工省を経て内務省に移った。1919年パリ講和会議全権随員となり、1921年に内務省社会局書記官に就任。1928年12月に国際労働機関理事会日本政府代表事務所長に就任しジュネーヴに駐在した。1936年内務省社会局参与。退官後は商工中金理事長、日本商工会議所専務理事等を歴任。花子夫人は動物学者・箕作佳吉(箕作阮甫の孫)の次女で、俊蔵・花子夫妻の長男が建築家の吉阪隆正である。ジュネーヴ滞在時に、当時の国際労働機関の中国代表から集印帖にスケッチを描くことを教わったが、俊蔵が教わった集印帖にスケッチを描くことは長男・隆正にも多大な影響を与えている。』


1890年 - フランツ・ヴェルフェル、小説家(+ 1945年)

『1890年に、当時オーストリア・ハンガリー帝国に属していたプラハに生まれる。彼はユダヤ人であり、20世紀初頭には同時代の他のユダヤ人知識人、たとえばフランツ・カフカ、マックス・ブロート、マルティン・ブーバーなどと親交を深めた。ヴェルフェルは第一次世界大戦にはオーストリア・ハンガリー帝国軍の一員として従軍、ロシア戦線および報道部隊に勤務したが、そのあからさまな平和主義の主張によって反逆罪容疑で逮捕されたこともあった。1929年に、建築家ヴァルター・グロピウスと離別したばかりのアルマ・マーラーと結婚した。この頃既にヴェルフェルは小説家として名を成していたが、彼を真に有名にしたのは1933年の小説『ムサ・ダの40日間(Die vierzig Tage des Musa Dagh )』であった。これはトルコ人によって1915年に発生したとされる、アルメニア人虐殺問題を扱ったものである。ユダヤ人であるヴェルフェルは、1938年のオーストリア合邦(アンシュルス)を受けて、アルマとともに故国を脱出する。初め2人はフランスに亡命した。ヴェルフェルはルルドを訪れ、そこでの体験と同地に祭られている聖人ベルナデット・スビルーの印象は後に小説『ベルナデットの歌(The Song of Bernadette )』(1941年)となった。翌年の独仏開戦とともにフランスも危険となり、マルセイユ在住のアメリカ人ジャーナリスト、ヴァリアン・フライの支援の下、アメリカ合衆国に再亡命した。アメリカでは南カリフォルニアに在住、同地で彼の最後の劇作『ヤコボウスキと大佐(Jacobowsky und der Oberst )』が著されている。ヴェルフェルは1945年にロサンゼルスで亡くなった。彼の遺骸は当初ローゼンデール墓地に葬られたが、戦後ウィーンの中央墓所(Zentralfriedhof)に改葬されている。』


1890年 - エルザ・スキャパレッリ、ファッションデザイナー(+ 1973年)

『イタリア・ローマ生まれの女性ファッション・デザイナー。1930年代、40年代最も精力的に創作活動を行なったクチュリエール。その個性的なデザインはイタリアやフランスだけではなくアメリカでも人気となり、一躍ファッションの中心人物となった。その大胆なデザインにはファンが多く、ブロード・ショルダー、骸骨模様を入れたアヴァンギャルドなセーター、刺激的なショッキング・ピンクなどの時代を卓越したアイディアでその評価を高めていった。』


1891年 - カール・ヤーコプ・ブルクハルト (en:Carl Jacob Burckhardt)、歴史学者(+ 1974年)

。。。Σ( ̄ロ ̄;)略されてない!おいらに訳してみろ・恥をかけといわんばかりのお膳立て!ただ世界の著名人の歴史が知りたいだけなんだけど、あああああ!ハッキリキッパリいうとわかりません♪略してくれるツールが一杯あるんだい;--)b『時間の都合上・・・戦中のナチスドイツが行った市民や捕虜に対する残虐行為の改善を求め、批判し残虐行為に対する改善と残虐行為が明らかになったナチスに対して正式に非難をして拒否主導厳正中立赤十字国際委員会の既存のポリシーを維持し、その後彼は歴史本を出版。平和への貢献から1954年に平和賞を受賞したスイス生まれの外交官でもあり、歴史学者である人物。』。。。まちがってたらごめんなさいm(_ _;)m。o0歴史が知りたいだけなんだよぉーーー(汗)


1893年 - マリア・デ・イエス、2008年11月26日 - 2009年1月2日の長寿世界一(+ 2009年)

『ポルトガルの女性。日本の報道ではマリア・デジェズス、もしくはマリア・デ・ジェズスと表記されることもある。2006年8月以来、欧州最長寿の女性。2007年8月に日本の皆川ヨ子が亡くなり、以降世界で2番目に長寿となった。2008年11月26日にエドナ・パーカーが死去したことに伴い世界最長寿になった。この時点で彼女の子供5人の内、3人が存命していた。1951年に夫を亡くしたという。2009年1月2日、救急車で病院に搬送されている途中に死去。115歳と114日だった。』


1897年 - ジョルジュ・バタイユ、作家・思想家(+ 1962年)

『両親は無宗教であったが、家庭崩壊により救いを求めて、本人の意志でカトリックに入信。敬虔なクリスチャンとして過ごす。その頃から神秘主義的な素養が芽生え始めている。その後ニーチェの読書体験を通して徹底的な無神論者となる。「死」と「エロス」を根源的なテーマとして、経済学・社会学・人類学・文学・芸術・思想・文化・宗教・政治など多岐の方面にわたって執筆。発表方法も批評や論文・評論、対談集から詩・小説・哲学書まで様々な形態をとる。1922年に名門グランゼコールの一つである国立古文書学校を卒業後、パリ国立図書館に勤務していた。哲学的にはアレクサンドル・コジェーヴの影響のもとに徹底的なヘーゲルの継承と批判から出発する。ロード・オーシュ名義で発表された処女作「眼球譚」をはじめとして、トロップマン、ルイ三十世、ピエール・アンジェリック等の様々な筆名を使ったことでも有名。特に、フロイトの『快感原則の彼岸』に着想を得て「一般経済学」を打ち出した『呪われた部分』は、後世に多くの影響を与える。また、西欧キリスト教神秘主義の後継かつ換骨奪胎でもあるような「内的体験」の思考の鋭さは、その断言的な飛躍の多い文体を弱点とみなしても、再読の余地があるとされる。本人に自覚はなかったであろうが、古代のネオプラトニズム、中世のエックハルトの神秘主義の流れをくみ、ニーチェとヘーゲルの思想を摂取して神秘主義的に再解釈し、それを現代的思想に表現したという点では、戦後のフランス現代思想に与えた影響は大きい。神秘主義に傾倒する前は共産主義を伝統的な(制度的)至高性souverainetéに最も対抗できる運動として称揚し、1931年から後のフランス共産党の創設者の一人ボリス・スヴァーリヌ率いる「民主共産主義サークル」のメンバーになるなど革命的知識人の側面があった。この団体が解散された1934年でも新たにトロツキスト団体に加入したが、バタイユはこの頃に「内的体験」や「瞑想の方法」に目覚めたとされる。また、ナチスのニーチェ濫用を早い段階から非難し、著作で「(主体的な)至高性が足りない」「ドイツの教授先生」と批判したハイデガーから、「フランス最高の頭脳」という賛辞を呈せられたことは有名。ジャック・デリダ(『エクリチュールと差異』にバタイユ論がある)やミシェル・フーコー(「侵犯の思考」というバタイユ論がある)への影響も見逃せない。しかし、フーコーとドゥルーズはのちにバタイユを批判した。』


1910年 - 平井康三郎、作曲家(+ 2002年)

『本名平井保喜(ひらい やすき)。高知県吾川郡伊野町(現:いの町)出身。東京音楽学校バイオリン科卒業。1936年(昭和11年)研究科作曲部修了。1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)の期間、東京音楽学校で教鞭を取る傍ら、作曲活動を行い、「平城山」や「スキー」などを作曲した。その後は、文部省教科書編纂委員として音楽教科書編纂等に携わる。また、NHK専属作曲・指揮者、合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大学教授等を歴任。1965年(昭和40年)、「詩と音楽の会」を結成。日本の新しい歌曲、合唱曲集の創作活動を行う。作品は、器楽、声楽(洋楽・邦楽)と広範囲にわたる。小学校や中学校の校歌も数多く手がけた。1973年(昭和48年)、紫綬褒章受章。1982年(昭和57年)、勲四等旭日章受章。1983年(昭和58年)、伊野町名誉町民。1992年(平成4年)、よんでん芸術文化賞、毎日出版文化賞を受賞。2002年(平成14年)11月30日、肺炎で死去。享年92。息子は、世界的チェロ奏者平井丈一朗、孫は、指揮者・作曲家の平井秀明、ピアニスト平井元喜。』↓戦の匂いがまだ残る歌詞と歌声だぁ~。♪~




平井康三郎 - さくらさくら幻想曲



1917年 - 木村政彦、柔道家・プロレスラー(+ 1993年)

『その荒々しい柔道スタイルから「鬼の木村」の異名を持つ。戦前の全日本柔道選士権大会(現在の全日本選手権の前身)4 連覇(1937-1940年)に加え、翌年選士権大会に代わって開催された天覧武道大会、戦後の第2回全日本柔道選手権(第1回には不参加)まで、およそ 13年以上にわたって公式試合で無敗のまま昭和25年、プロ柔道家に転身、さらにプロレスラーになった。後に柔道界に復帰し、母校拓殖大学の指導にあたるが、講道館は最後まで木村にプロの烙印を押したまま七段から昇段させず、柔道殿堂にも入っていない。しかし、一方で、昭和26年にブラジルでエリオ・グレイシーの挑戦を受け、得意の腕緘を極めて圧勝し、総合格闘技の種を蒔いたという意味で、総合格闘技家の先駆であった。』


1919年 - 堀越克明、教育者

『1919年東京府(現・東京都)生まれ。東京大学農学部卒業。中央教育審議会委員・総務庁国際青年事業推進会議企画委員長を歴任。現在、財団法人日本私学教育研究所常任顧問。堀越高等学校校長就任後、同校に芸能・スポーツのコースを設置。芸能人・スポーツ選手を多数受け入れ、全国的に著名となった。同校出身の芸能人・スポーツ選手の氏名はすべて記憶しているという。政治的・思想的には保守の立場に立っており、新しい歴史教科書をつくる会に賛同しているほか、日本会議「『日本の教育改革』有識者懇談会」(民間教育臨調)代表委員も務めている。1978年に藍綬褒章を、1993年に勲三等旭日小綬章を受章した。また1994年には第67回アカデミア賞を受賞している。』


1929年 - 矢代秋雄、作曲家(+ 1976年)

『日本の作曲家。若い頃より英才として将来を期待され、東京音楽学校作曲科、東京藝術大学研究科を卒業した後、パリ国立高等音楽院に留学。和声法で一等賞を得る等、優秀な成績を修めて卒業。晩年は、作曲家として活動する一方、東京藝術大学音楽学部作曲科の主任教授として、後進の指導にあたった。門下より、池辺晋一郎など現在の日本を代表する作曲家を輩出している。完璧主義、寡作主義で知られ、残された作品はどれも完成度が高く、再演も多い。』↓世にも奇妙な物語とか学校の怪談で使えそうなメロディーだ。。。影から覗く影。影から光は差さずひたすら影・闇だけが闇夜で踊り明かす幻想的な想像をさせますね(汗)♪~




Akio Yashiro, Piano Concerto - 1st movement (2/2)





1932年 - 山田康雄、声優(+ 1995年)

『かつて山田のもとには「声優になりたい」という人が多くやってきたが、彼らに対する山田の返答は「声優になりたいと思うのならやめなさい。でも、役者になりたいのなら、やってみてもいいかもね」というものであった。「声優とは役者の一部分。一部分を目指すだけでは成功しない」という意味がこめられており、山田の役者としてのこだわりが窺えるエピソードである。また、新人声優たちに対する指導の際は「声優を目指すな、役者を目指せ。演技は全身でするものだ。それでこそ『声優業』も活きてくるんだ」という言葉が口癖だったという。同様の苦言は野沢雅子や野沢那智も呈している。また、声優のギャランティの向上などを求めてテレビ局にデモを起こしたことがある。昭和40年代、声優は吹き替えをすると再放送分のギャラは支払われなかったうえに、山田の仕事仲間のピンチヒッターを務めた俳優の宇津井健のギャラは45万円だった(当時は作品1本につき、最低3000円から最高で3万円であった)。このため、山田はこれらを声優全体の問題と考えこの問題を解決するべく奮闘したのだという。結果、山田らの善戦の甲斐あって、再放送のギャラが認められるようになった。一般に「ルパン三世の山田康雄」として知られていたが、山田は風貌までルパンに似ており、常にキャラクターと一心同体のイメージでお茶の間に知られていた例の一つである。ちなみにルパンのキャラクターデザインは『リオの男』のジャン=ポール・ベルモンドをモデルにしており、その吹き替えを山田が担当していた。』


1934年 - ロジャー・マリス、メジャーリーガー(+ 1985年)

『1961年、アメリカンリーグは新規球団の加盟を認可し、それまでの8チームから10チームに膨れ上がった。これにより結果的にリーグ全体の投手の質は低下し、ヤンキースの本塁打数は記録的なペースで積み上げられていった。その年に撮られた有名な写真はミッキー・マントル、ロジャー、ヨギ・ベラら6人もの1961年ヤンキース選手を並べたもので、最終的にはこの6人合計で207本もの本塁打を打った打線は「殺人打線(Murderer's Row)」として他チームの投手陣から恐れられた。ロジャーがシーズン初ホームランを放った4月27日に MM砲の一方である4番打者マントルは既に7本を記録していたが、5月半ばにマリスが12試合で9本打ってから2人のホームラン競争は激化した(5月末の時点でロジャー12本、マントル14本)。シーズンも半ばに入ると6人の中でもロジャーかマントル、あるいは両者がルースの34年間保持してきた年間最多本塁打記録を更新する事は確実な情勢になってきていた。好意を持って報じられたマーク・マグワイアとサミー・ソーサの1998年の本塁打争いとは異なり、当時のスポーツ記者は2人の不仲を騒ぎ立てる様な記事を多く書き立てていった(ベラは後年のインタビューで両者の不仲を否定)。ルースの記録はニューヨークの保守的記者にしてみればまさに「聖域」であった。また、その他にも当時のメディアは生え抜きで記者との関係も良好だったマントルを応援する風潮になっていたのに対しロジャーは外様であり無口だったため「真のヤンキースの一員ではない」などの批判にさらされ、悪者扱いする人たちも少なからずいた。また、ロジャーのホームランはフェンスギリギリの当たりが多かったこと、また打率が2割7分前後と平凡だったことで「ルースの記録を破るに相応しい人物ではない」との評判もあった。そんなロジャーをさらに逆風が襲う。ルースの時代では154試合で60本を達成したのに対ロジャーの時には現行の162試合制であった事から、ルースのゴーストライターで当時コミッショナーを務めていたフォード・フリックはルースの記録をマリスが154試合以内で破らない限り両者の記録は併記され、参考記録扱いになると発表した。その他にも「次打者がマントルであるため敬遠されることが少ないのでルースより有利な条件だ」という理由で、たとえロジャーがルースの記録を数字の上で破ってもその記録は認めるべきでない、という意見もあったが、いずれもルースの記録を不可侵なものと認識する保守的なファンの苦しいこじつけであった。40号、50号をマントルよりも早く達成し迎えた154試合目の9月20日59号を放つものの60号は打てず、9月26日に60号を記録した。10月1日にヤンキー・スタジアムでのシーズン最終戦対ボストン・レッドソックス4 回裏に第61号を放ち、記録更新を達成。しかし、この時の記憶は彼にとって決して好ましいものとはならなかった。記録達成が近づいたころからはホーム球場でホームランを放っても地元ファンからブーイングを受けるという、前代未聞の屈辱と苦しみを受けさせられることとなった。後年インタビューでマリスはまるで自分が悪いことをやっているかのように報じられ、大変なストレスが溜まったと述べている。また、他のインタビューでは記録を破るどころか近づかない方がよかったのかも知れないとも語っている。同年、2年連続となるアメリカンリーグMVPを受賞。1962年にロジャーは4年連続、そして最後となるオールスター出場を果たす。本塁打記録のイメージが強いため彼の守備能力は軽視されがちだが、同年のワールドシリーズ最終戦9回では同点タイムリーを防ぐ強肩ぶりを発揮しヤンキースの世界一に貢献する。ヤンキースは1984年7月21日に背番号9の永久欠番を発表し、ヤンキー・スタジアムレフトスタンド後方にあるモニュメント・パークにマリスの業績を称えるレリーフを設置。そこには「名選手であり、大リーグの歴史の中に最も印象深い章の一つを刻んだ筆者」との文字が書かれている。』


1934年 - 樋口陽一、法学者

『父親も東北大学教授であった関係で、生まれも育ちも宮城県仙台市。清宮四郎門下。東北大学大学院時代からその才能を評価され、(東大の植民地と揶揄された)東北大学法学部にあって、数少ない生え抜き教授となった。藤田宙靖(東北大学名誉教授)によれば、樋口が大学院修了により東北大学教官に採用される時には、「講座人事上の無理をして」という内幕があったようである。(樋口古希記念・藤田、樋口陽一さんと私 : あとがきに代えて )東京大学 大学院 法学政治学研究科・ 法学部教授、上智大学法学部教授、早稲田大学法学部特任教授を歴任(2005年3月で退職)。日本憲法学界を代表する憲法学者で、一橋大学名誉教授の杉原泰雄や名古屋大学名誉教授の長谷川正安との国民主権論争は有名。精力的な活動をしている。いくつかの共著がある作家の井上ひさしとは、高校時代からの友人である。』


【ざっと下記の著名人を見ても知ってる人が結構いますね♪載せてるだけで可也満足;^^)ノ丸写しとはいえ、アップさせて下さいm(_ _)m】


1938年 - カール・ラガーフェルド、ファッションデザイナー

1939年 - 村松克己、俳優(+ 2001年)

1941年 - 横井軍平、任天堂のゲームデザイナー(+ 1997年)

1941年 - スティーヴン・ジェイ・グールド、生物学者(+ 2002年)

1943年 - 松岡佑子、翻訳家

1945年 - ホセ・フェリシアーノ、歌手、ギタリスト

1947年 - 内田順三、プロ野球選手、コーチ

1947年 - 石床幹雄、プロ野球選手(+ 2004年)

1948年 - 内舘牧子、脚本家・小説家・横綱審議委員会委員

1949年 - 欧陽菲菲、歌手

1950年 - ジョー・ペリー、ミュージシャン(エアロスミス)

1952年 - 小林光一、囲碁のプロ棋士

1956年 - 増本宏、プロ野球選手

1957年 - 綾戸智恵、歌手

1958年 - 高沢秀昭、プロ野球選手

1958年 - クリス・コロンバス、映画監督

1960年 - コリン・ファース、俳優

1961年 - 栄村忠広、プロ野球選手

1961年 - 和泉実、高校野球指導者

1962年 - 山下訓史、陸上競技選手

1963年 - ランディ・ジョンソン、メジャーリーガー

1963年 - 雨蘭咲木子、声優

1964年 - 水島武蔵、サッカー選手、指導者

1966年 - 斉藤由貴、女優・歌手

1966年 - 後藤敏博、バスケットボール選手・指導者

1968年 - ガイ・リッチー、映画監督

1969年 - 小原愼司、漫画家

1971年 - 進藤晶子、アナウンサー

1971年 - 櫻井智、声優

1974年 - ミルコ・クロコップ、格闘家

1975年 - 山田暢久、サッカー選手

1976年 - 加納孝政、歌手(RAG FAIR)

1976年 - 信原拓人、元プロ野球選手

1977年 - ダニス・バエス、メジャーリーガー

1979年 - 時天空、大相撲力士

1979年 - 鈴木くるみ、AV女優

1979年 - 青木智史、元プロ野球選手

1980年 - 西堀裕美、NHKアナウンサー

1980年 - ティモシー・ゲーブル、フィギュアスケート選手

1981年 - YAMATO (プロレスラー) 、プロレスラー

1982年 - 服部泰卓、プロ野球選手

1983年 - ジョーイ・ボット、メジャーリーガー

1984年 - 若林翔子、女優・タレント・モデル

1984年 - 真堂圭、声優

1985年 - 松田翔太、俳優

1985年 - 上木彩矢、歌手

1985年 - 白井珠希、女優

1985年 - 久米勇紀、プロ野球選手

1986年 - 内博貴、タレント

1986年 - 松林菜々見、レースクイーン

1987年 - 阿井莉沙、歌手、元dream

1987年 - 谷村奈南、歌手

1988年 - ココ・ロシャ、スーパーモデル

1993年 - 西野友毬、フィギュアスケート選手


PS


あらっ、後半掲載されている著名人は殆ど知ってる♪#--)ヽでも今日はこの辺で。明日もプロフが楽しみぃ~ではぁ~

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Posted by 渡瀬側治 at 2010/09/10 23:57 | Top▲
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